いずれ羽をうしなって、ただの女の子になったとき。
墜ちるなら、どうかぼくの腕のなかに。
01
蒸しあつい夏の日だった。校庭では草刈りをしていて、ぶうんとひくくうなる音が階下から這いのぼる。開けはなった教室の窓から風かふきこみ、ゆれるカーテンが草いきれをいざなう。空気が、あおくさく染まった。
ひかりがカーテンでさえぎられて、うす暗いなか、しろい背なかだけがまばゆい。背骨のささいなゆがみまで、明瞭に浮かびあがっている。否、背骨ばかりではなかった。いまは、あれこれがあらわだ。たとえばほそい腰まわり、二の腕、結いあげた髪ののこりがかかるうなじ。左右対象にはりだした肩甲骨。華奢な、下着。
上半身をおしげもなく外気にさらす、その少女は、最小限の動きでぼくを振りかえった。怜悧な視線に縫いとめられる。鏡くん、と彼女が読んだ名に、からだがふるえた。
本来秘め隠すべきものを男のぼくに見せつけながら、けれど彼女は、なんの感慨もいだいてはいないようだ。ただの確認だとでも言いたげにちらと見ただけで、またまえを向く。手でつかんでいたセーラー服をするすると着込むと、やっとからだが隠れた。ぼくはいくぶん胸をなで下ろしたものの、目を逸らす。じっと見ていると、目に焼きついたからだの線をそこにかさねてしまいそうだった。
胸もとにリボンを結びながら、彼女はからだごと振りかえる。
「見た?」
見た。だけどどちらのことを、言っているんだ。わからないから、からからの口で、なにをと聞く。
「なにって。べつに、下着のことじゃあないけれど」
だとしたら、聞きたいのは……あれ、のことか。ぼくの目がおかしいのでは、なかったのだ。見まちがいかとも思った。ぼくは目があまりよくないから。
おずおずと、口をひらく。
「青、は。羽がある? 背なかに」
ぼくがつっかえながら聞いたのとはうらはらに、三代木(みしろぎ)青はあっさりとうなずいた。
「ほんものだよ。なんなら、さわってみる」
それは、丁重にお断りする。
たまたまおとずれた教室で、クラスメイトが着替えの真っ最中だった。それが三代木青とくればぼくにとってはおおごとなのだけれど、このさい置いておく。
問題は、肩甲骨だった。
彼女のそこには、羽が生えていた。
「わたしのひいひい、ひいおじいさんだったかな。鳥だったんだよ」
「……青、人間だろ」
「うん。だからね、鳥だったおじいさんが、人間になって人間と結婚したの。これはあくまでなごり。だからあくまで、ちゃちなものだったでしょう」
青がそんなふうに言うから、否応なしにはだかの背を思い出してしまう。ぼくは極力、羽のことだけ考えるようにした。
たしかにそれは、つばさとは呼べない代物かもしれない。肩甲骨から、ひと房、純白の羽毛がたれさがっているばかりだった。けれどたしかにそれは、からだに根づいているようだった。
そうか、先祖が鳥。だから。
「鏡くん」
納得しているとふいに名を呼ばれた。顔をそちらに向ける。
たちまち視界がおぼつかなくなった。かけていためがねを盗られたものらしい。なにするんだ、と抗議しようとすると、ほほに妙な感触がした。ひゅっと、ことばがひっこむ。
うだるようなあつさ、充満する草いきれのなかに、ひとすじ、清涼な香りが流れこんだ。
それが青から香っているのだと気づいたときには、彼女はぼくのほほからくちびるをはなしていた。あいまいな視界のなかで、青がほほえんだ、気がした。
「ないしょだよ」
約束して。でないとめがね、返さないから。そう言われては、うなずくよりほかなかった。
青と別れたあと、全身が熱くて、だけどくちづけられたほほだけ、ひりひりとつめたかった。
02
青は、いつもそうだ。
ぼくのなかに、剥がれない記憶をいくつもいくつも焼きつけて、だけどきっと彼女自身に自覚はない。いまだあざやかな焼け痕たちは、散らばったまま。
それが消えることはない。わすれられない出来事がある。ちょうど二年前のこと。あの日も、今日みたいに教室で青とはちあわせた。空のあおさに目もくらむ、夏の昼さがりだった。 あおすぎる空がおちてきたのか、教室にまでその色が滲みて、どこも紺碧色をしていた。ロッカーも机も息をひそめているようで、だけどひっそり、見えないところで息をしているようで。
青は窓辺で空を見上げていた。なにしてるんだと聞いたぼくを一瞥したっきり、返事をしなかった。手持ちぶさたにそのとなりに立ち、いっしょになって空を見上げてみる。
あおいな、とつぶやきが漏れた。あおい。あんまりにも。かなしいくらいだ。
このあおにはきっと宇宙の色が透けてでている。そして宇宙は、孤独なところだ。孤独はさみしくて、かなしい。だからあおすぎるのは、かなしい。
「鏡くんの、さ」
ふいにことばがさしむけられた。
「こわいものって、なに」
思いがけない問いに、青を見た。横顔だけが見えた。空気といっしょくたに暗がりのあおに染まった顔が、一心に空を見上げている。
こわいものなら、いくらもあった。ささいなものから、そうでないものまで。ことばにしやすいものから、そうでないものまで。だから、答えあぐねた。けれど答えられなかったところで問題はなかった。ぼくに問うたこと自体にさしたる意味はなかっただろう。ぼくがその場にいなくても、彼女はきっと、おなじことを自分に問うていた。
そのあかしに、青は、わたしはね、と言いかけて息を吸った。
「必要とされなくなることが、こわい」
そして青は、たったひとしずくぶんだけ、泣いた。こぼれた銀がほほにひとすじの線をえがいて、あおい肌のうえできらめいた。
雷のようだった。
必要とされなくなる。それはうらをかえせば、いま必要とされているということ。
三代木青がうしないがたく思うのは、いったいだれか。それをかんがえるたび、ぼくのどこかがきしむ音をたてる。それがだれだかわからないからじゃない。だれだかわかりきっているから、くるしい。
それは青のことをよく見ていれば、すぐに知れることだ。
青はきっと、あの先生をうしないがたく思っている。
へんくつそうな顔をして、眉間のしわがとれなくて、よれた白衣を着た、生物教師を。
生物の授業中、青はとくべつな視線で彼を見ている。ただ見つづけている。それだけだ、だけどその視線が彼以外のだれか――ぼくに、向けられることはない。そして彼女は、放課後にはしばしば生物室をたずねる。同級生のなかには、ふたりは付き合っているのじゃないか、と下世話なうわさをするものもあった。
ほんとうのことを言うなら、ぼくはずっと気になっている。青が先生をどう思っているか。閉ざされたとびらの向こうで、なにが起こっているか。その実、ぼくはなにも知らない。強烈な疎外感だけが、そこにある。
03
ぼくが青のひみつを知ったあとも、なにも変わらなかった。ぼくと青はいままでどおりのクラスメイトだったし、青は生物教師を見つめつづけ、生物室をたずねつづけた。ぼくはそのうしろすがたを見つめながらも、黙したまま。うだるような夏は一日一日がとにかく長かった。
そんなふうに幾日かが過ぎて、ある日。青は、朝からみょうにそわそわしていた。これは先生がらみでなにかあるな、と直感が告げる。テストのヤマは当たらないのに、こういうときだけぼくの勘はよく当たる。とたんに、ただでさえめんどうな課外授業がますますめんどうに思えきた。机につっぷしたからだに熱がまとわりつく。青が先生のところに行くのを見ないように、今日はさっさと帰ろう。そう思った。
そのとおりに、授業が終わったらだれよりはやく席を立って、帰路についた。かげろうがゆれる道を小走りで抜けて、家にたどりつく。と、どっと疲れがのしかかってきて、ぼくはソファに寝転がった。
昼過ぎの我が家に、人気はなかった。電気すらつけていないせいで、居間はうす暗い。あたりにはむっと暑さがわだかまっていて、蝉の声が体感温度を上昇させる。それでもぼくは、動けなかった。
青は。
青は、やっぱり、先生のことが――。
「好き、なのかな」
自分でこぼしたことばに、全身の毛が逆立った。それはずっと、ぼくが口にすることはおろか、思い浮かべることさえかたく自分に禁じてきたはずのことばだった。
あまりにあっけなく、それが漏れてしまったのは、暑さのせいだろうか、それとも。
目を閉じる。まなうらに、しろい背なかが、背骨が、肩胛骨が――羽が、ちらついた。そうだ、あの、羽を見たときから。ぼくはすこしおかしくなったのだ。なにも変わらないなんてことは、なかった。
つよく、つよく奥歯をかみしめる。まぶたをもっときつく閉じた。このまま眠ってしまえたら、と思う。だってぼくには、どうしていいかわからない。
燃えたつように、ほほの一点が熱くなる。否、燃えたつようだと思っていたら、それはいつのまにか、ほんとうに炎をあげている。ほほの炎はやがて全身に飛び火して、からだのそこここが燃えあがる。手が、足が、胸が――心が、火をやどす。
きっと、もともと焼け痕だった場所が、また燃え上がっている。痕はまだここにあると、その存在をぼくに知らしめるように。
消えない。消えない。
焼け痕が、消えない。
皮膚をなめる火が、ひどくもどかしい。その熱が、ぼくをせきたてる。行け、行け、と。だけどぼくは、からだを燃やす炎で目を焼きながら、動けない。行くってどこに、と困惑している。
気づけばソファで眠っていて、そんな夢を見た。起きたときには汗だくだった。外で風にあたりたいな、と思った。
04
もうあと、五分もしないうちにあたりは暗くなる。落日の残滓があたりを染めて、どこもだいだい色をしていた。しゃらしゃらとひぐらしが鳴いている。吹きぬける風に、昼の熱気がうそのような秋の気配を感じた。夏が終わりはじめているのだ。
コンビニにでも行くつもりだった。買いたいものはなかったけれど、風にあたりたいだけだからそれでいい。いつもなら自転車で行く距離を、ゆっくり歩く。やがて、大きな橋にさしかかった。車道が広く、堅牢なガードレールをへだてた歩道も、またひろい。夕焼け色をうつす川面が、ずいぶん低いところに見えた。人影はない。車も通らない。これだけ立派な橋なのに交通量が異様に少ないから、渡るたび、時が止まってしまったみたいな錯覚におちいる。
――だから、よけいに、そのすがたに身がすくんだ。
どうしてだろうな、と思う。
どうしてこういうとき、ぼくは彼女に出会ってしまうのだろう。
橋にはぼくと彼女、ふたりきり。あっちがぼくに気づいて手を上げたから、もう知らんふりもできない。
向こうがわから歩いてきた青は、ぼくのまえで立ち止まった。奇遇だね、そう言って笑う彼女は、セーラー服を着こんだままだ。いま、学校から帰るところ、だろうか。……先生のところから? しくりと胸が鳴く。
青は欄干に腕をもたせかけて、ちょっと話そうよ、とぼくをさそった。ほんとうはその場から逃げだしたい気持ちでいっぱいだったけれど、あらがいきれずに、そのとなりに立って川を見下ろす。
そしてだしぬけに、青は言った。
「先生ね。結婚するんだって」
青の顔は見れない、そう思っていたのに、あっけなくぼくはその横顔を注視していた。さっき気づかなかったことに、いまやっと気づく。あたりを満たすだいだい色のひかりのせいでなく、青の目もとが赤かった。
「わたしのことは、ほんとうにただ、興味があっただけだって、それ以外のなんでもないって」
「……興味、って」
「先生の夢がなにだか知ってる」
淡々と彼女はたずねてきた。ふせた目を、長いまつげがよろって、ぼくの視線をはばんでいる。
「空を飛ぶこと」
にわかにふいた風が、首すじを冷やした。のろのろと、ぼくのわるいあたまは状況を理解しはじめる。青は言った。自分に羽があると先生は知っていて、その個人の研究に協力していたのだ、と。
空を飛びたい先生に、青は必要とされた。
その関係を、青はうしないがたく思った。
だけど、その先生は結婚する。
「鏡くん、おぼえてるかな。まえに、こわいものはあるかって聞いたじゃない」
デジャヴをおぼえる。あの日も、こんなふうに、ぼくは青のとなりに立っていた。そしてその横顔しかうかがうことはできなかった。いま、その顔は暖色に染まっているけれど。あの日はかなしいくらいあおい日だった――わすれるはずがない。ぼくはうなずいたけれど、青が見ていたかどうかはわからなかった。それでも彼女は、話をつづける。
「あの日、姉さんの羽が抜けたんだ」
青にはひとり、姉がいる。そうか姉さんも、羽をもつひとだったのだ。でも、それが抜けたって。青はそこで、ふっと温度のない笑みをもらした。
「そのとき、思ったの」
そして青は、わたしも、と。そう言う。
わたしも、いずれ羽をうしなう。
ぞっとした。ぼくはぼく自身が思うよりずっとかんたんに、その事情を理解した。同時に、思い知らされる。ぼくはやはり、なにも知らなかった。
どうしておまえ、そんな、人形みたいな顔してる。
「羽をなくしたわたしを、先生は必要としない」
青は、ずっと、わかっていたのだ。
自分はいずれ羽をうしなうこと。いつか先生が青を必要としなくなる日がくること。
それでもきっと、青はそのつながりにすがりついた。あるいは、ただの女の子になったそのときも、先生は自分を必要としてくれるかもしれない。そう、思って? ……邪推すれば、それはもしかすると、愛してくれるのではという期待だったかもしれない。
きっとおとずれる終わりのときを予感しながら、それでも青は、先生を求めていた。
だけど彼は、ほかのだれかと結婚する。
羽をうしなうよりずっとはやく、終わりのときは、来てしまった。
いつのまにか、あたりはすっかり暗くなっていた。沈黙を持てあまして見おろした川面に、おそろしいくらいの闇がとぐろを巻いている。二本の足はきちんと地面についているのに、その暗がりにすとんと墜ちてしまいそうな、そんな浮遊感がぼくを襲った。
いつかのあおい日とおなじだった。ぼくは今日も、なにも言えない。なにか言いたいのに、なにも。
ふいにとなりで、息をつく音がした。鏡くんさ、と呼びかけてくる声に色も温度もない。鏡くん、さあ――。
「好きだったんじゃないの。わたしのこと、ずっと」
どくんと心臓が鳴って、あたまに血がのぼった。一瞬視界が白くひかって、青がなんと言ったのか理解するのに、ひどく苦労した。
青はきっと、先生が好きだ。それをみとめてしまうのはくるしくて、ぼくは好きだなんてことば、死んでも使ってやるものかと思っていた。
じゃあ、ぼくは?
ぼくはきっと、青が――好きだ。それをみとめてしまうのも、おなじようにくるしくて。だから好きなんてことば、使えない。
ぼくだってわかっていた。これは横恋慕。剥がれない記憶の焼け痕がどれだけせきたてたって、青を先生からうばう力も気概もありはしない。だってそうだろう。いま、目もとを赤くしている青にかけることばも見つけられないぼくに、どうしてそんなことができる。
けれど青は、そんなぼくを見透かしていたのだ。いったい、いつから。
青は欄干にもたせかけていたからだをいくぶん起こした。長い髪がゆれて、横顔をかくす。
「なんでだか、鏡くんはわたしが泣きたいきもちのときに、現れるよね」
そしてうつむいたまま、立っていた。日没のあとの暗がりが、ながい髪が、そしてたぶんその内側でふせられた目が。淡々としすぎた声が、その心うちを幾重にもおおいかくしている。
「でも、なにも、言ってくれないんだ」
青はさいごまで、その砦を守りつづけた。
05
ぼくはなにもしなかった。それだけで、どうしようもなく状況はわるくなった。なにもしないことが罪になる、そういうことだってあるのだ。
青は、目に見えて生気をうしなっていった。見たところ、なんら容姿におとろえはない。しろくかがやく肌にみにくいにきびが浮くことも、くせ毛でもつややかな髪が乾ききることもなかった。けれど目が、翳った。そしてその身に、涙が蒸発したみたいなうれいをまとっていた。ぼくはいつも、青を見ていたから。そのちがいに、息がつまった。
だけどどうして情けない。ぼくは、なにもできなかった。橋のうえで言われた。なにも言ってくれないんだ。そのひびきはどこかとがめるようで、ぼくのからだは硬直した。
そのうち、課外授業も最後の一日になってしまった。
つぎに会えるのは新学期だ。そう思うと、焦った。このまま青になにも言わなかったら、しなかったら、それこそとりかえしのつかないことになるんじゃないかと、思った。
けれど、かけることばをさがすうちに、いつもならながながと感じる授業は終わっていた。机につっぷす。ひさしく顔を見ていなかった担任がやってきて、屋上が明日から閉鎖になると告げたけれど、そんなことどうでもいい。
顔を上げて、青を見ると、まさに席を立っているところだった。どうしよう、とぐるぐる悩んでいるうちに、青はぼくの席に近づいてくる。そしてこのままなら、そのまま通りすぎていなくなる。
――どうしたら。
わけがわからなくなって、まえを通った青の手首を、つかんでいた。
「なに、鏡くん」
引きとめたはいいものの、口からはああとか、えっととか、意味をなさないことばしか出なかった。
やんわりと、手首にかけた手をほどかれる。
「用がないなら、帰るよ、わたし」
「あ、ああ……うん」
弱々しくごめんと言うと、たぶん気のせいじゃなく、青はあきれた顔をした。それがつらくて、ぼくはうつむく。
終わってゆくのだ、と思った。
結局、なにもできないまま。
視界の外で、いまにも青は立ち去ってしまう。ほら、足音がするはずだ。
けれど、耳にはなんの音もひびいてこなかった。おかしい。待てども待てども、きぬずれひとつしない。
顔をあげると、青はまだそこにいた。笑って、いた。
「どうしてひとは、飛べないのかな」
ぼくは、こおりついた。
その笑顔は笑顔なんかではなかった。ゆるく弧をえがいた口もとが、皮肉げにすぎる。顔のささいな陰影が濃い。そしてなにより、その目。
まつげのかげになった目のくぼみに、深淵がはめこまれていた。あまりにふかく、暗く、うつろな。いっさいのひかりをゆるさない、そこに。
そこに、死があった。
今度こそ青はきびすをかえし、教室を出ていく。すがたが消えたのに、暗い影はぼくの目に焼きついていた。立ちつくす。課外を終えた教室のざわめきは遠く、耳鳴りがした。
なにもしないだけで、状況はわるくなる。
坂をころがりおちるように。
そのさきに待っているのは――死、だっていうのか。
なにもしなければ青は死んでしまう。それは、予感ではなく確信として、ぼくのもとに降った。
青が、いなくなる。
それでいいのか。
一瞬で血が沸騰した。席を立ち、走りだす。青はもう廊下にはいなかった。どこへ行った。かんがえるよりはやく、からだが動く。
それでいいのか、って、いいわけないだろうばか。ばかだ。ぼくは、ばかだ。どうしてこんなになるまで、動きだせなかった!
なげいている場合じゃなかった。なにもできないとか、へそをまげている場合じゃなかった。いまくるしいのは、青で、ぼくじゃない。うつむいていられない、手をこまねいていられない、あまったれてる場合じゃ、ない。
青、青、あお。
いなくならないでくれ。
流れる景色は明瞭さをうしない、そのかわり全身の焼け痕が目に見える気がした。赤い花びらのような、噛み痕のような焼け痕。それはいつかの夢のように、燃えたつ。からだから浮きあがり、目のまえを舞った。赤色が、ぼくをせきたてる。反して、想起する記憶はあおい。紺碧のなか、あのこの雷。輪郭のあいまいな世界、ほほの一点に感じた、熱くつめたい感触。行け、行け――行くよ。
青、青、あお。
おまえがただの女の子になったら。
ぼくの腕のなかに墜ちてきてはくれないか。
……それは、たぶん。臆病でばかなぼくの、いちばんの願いだった。
屋上へのとびらをひらけば、赤い花びらは痛いくらいのあおにのみこまれた。
一陣の、風がふく。逆巻いて、巻きあげた。ぼくの視線を、――青のスカートを、髪を。
三代木青は、給水タンクのうえに立っていた。
「……やっぱり鏡くんは、来るんだね」
青は空を飛ぼうとしている気がした。だとしたらふさわしいのは、さえぎるものなどなにひとつない空のある場所。そんなの、ここしかなかった。
見あげる、まじりけのない濃いあおを背負って、青が立つ。しろい肌、しろい制服はそのあおにすこしもおかされない。けれどいちだんと、そのひとみは暗かった。
「だけど、もう終わりだよ」
終わりだなんて言うな、そう言いたかった。上がった息をおして、無理に口をひらく。
刹那、舞ったのは、しろ。
屋上にふく風にあおられ、舞いあがるさまはあくまで優雅だけれど、墜ちてくるときにはそれがあざわらうように見えた。それは、羽だった。
はっとなって青を見る。彼女が身じろぎすると、セーラー服のすそから、おなじものがふわりふわりと墜ちた。また風が吹いて、純白をふきあげ、まき散らす。かきあつめることもかなわぬほどに。
「終わりだよ」
孤独が染める空のなか、ちっぽけな少女を、死と絶望がいろどっていた。終わりだよ、再三、青がくりかえす。
痛ましい顔に、ぼくの胸も痛くなる。同時に、やけっぱちの熱が沸きおこった――終わりなわけ、あるか。
羽がおちたらおしまいだなんて、そんなわけがあるか。
ただの女の子になったら存在価値がなくなるだなんて、ばかげた話があるかよ。
三代木青が、鳥だろうが人間だろうが、妖怪だろうが悪魔だろうが天使だろうが、宇宙人だろうが。そんなこと、関係がない。
青、青、あお!
この声果てよとばかりに、さけんだ。
このことばが真実として伝わるのなら、もう声なんていらない、そう思った。
諦念をのぞかせた両の目が、いまさらなにを言うのと言いたげに、ぼくを見ていた。鏡くんはなにも言わない、そんな声ならぬ声が聞こえるようだった。
けれどぼくの思いはのどもとまでせりあがり、あふれてとどまらなかった。ためらうことはもうない。
「ぼくは、おまえが!」
情けなくも、声がにじんだ。そのぶん余計に、心の奥がふるえた。目のまえの女の子に向けることを、ながらく自分に禁じつづけてきたことばは、それ自体ひかりの刃のようだった。自分のなかにためこむあいだに、つもりつもって力を増していた。
青は目を見開いた。言わないんだと思ってた……と、ほうけてつぶやくのが、聞こえた。それからだんだんと、顔がうつむく。かろうじてうかがえる部分が、くしゃりとゆがんだ。どうして、いまさら。風がかすれきった声をはこんでくる。
ぼくはそのことばさえ気にしていられないほど、自分の思いにかかりっきりになっていた。給水タンクの下に駆けより、のどをしぼる。鼻の奥がつんとうずいた。名を呼び、まだ足りないとばかりに繰りかえす。
太陽のひかりを、雲がさえぎった。あたりに、暗がりのあおがおちる。
ひとすじの銀が、雷が、こぼれた。
そして青は、いとしいひとの鳥であれなかった、ぼくのいとしい少女は、地を蹴った。
墜落する。果てない、宇宙のうつろな孤独をうつした、あおのなかを。
とっさにひろげた腕に衝撃がはしる。もう鳥ではありえない少女は、羽のようにかるいだなんて、お世辞にも言えなかった。耐えきれず、尻もちをつく。顔に、やわらかくくすぐったいものがふりかかった。それは彼女の髪であり、吐息だった。閉じていた目をひらく。そこに、明るい色の双眸がある。目もとが赤い。ぼくのひたいにひたいをつけて、鼻で鼻さきをくすぐる。
「鏡くん、……泣いても、いいかな」
言って、ぼくの首すじをぎゅうと抱きしめた。
だめだなんて、言えるはずなかった。目からも鼻からも液体をたれながしにして、ぐしゃぐしゃの顔をしている、ぼくには。止まれと命じるのに、感情の出口がこわれてしまったみたいで、ちっとも思いどおりにならない。
「青」
「うん」
「あお」
「うん」
意味のない問答。けれどそれでぼくは確認した。三代木青は、ここにいる。
青を受けとめたからだのきしみに痛み、青がここにいてうれしいという気持ち、青の心うちを思ってやりきれない気持ち。ぜんぶいっしょくたで、ぼくは透明な液体をながしつづけた。青もまた、ぼくの首にだきついて、しゃくりあげる。かろうじて、その背をさすった。青は、いままで泣かなかったのだろうか。だとしたらぼくより、ずっとずっと強い。
ふたりぶんの泣き声が、高みに吸いこまれる。一生分、泣いて、泣いて、泣いて、あとにのこったのはふたつの脱けがらだった。
からっぽもからっぽの状態で見る空は、ふかく、あおい。
それでもぼくは、もうひとりじゃない。
羽をうしなった少女は、ぼくの腕のなかに墜ちてきた。
きっともう、ひとりにはしないから。
(了)