駅舎を出るなり、むせかえるしめっぽい夏のにおいが波になって、絹のところにどっと押し寄せた。不快指数は高いはずなのに、重たい空気に絹はただただ、ああ、なつかしいな、とだけ思った。
 山と海に挟まれた、扇形をした田舎町に帰ってくるのは、じつに久方ぶりだった。ここを離れたころ、絹の黒髪はまだ肩を越してもいなかった。それがいまは、腰にとどくほどに長い。長い髪は鬱陶しい。雨の日には水気を含んで重くなる。これは、ただ義務で伸ばしているというだけのこと。
 帰ってきたのもまた、義務だった。
「おかえり、“花の御子”」
 ふっと鼻から抜ける息が混じった、独特の声が、耳朶を打った。絹がのろのろと首をひねると、軽くたばねた黒髪が、肩から背へゆるやかにながれる。
(へえ、)
 ゆらぐ陽炎のなか、気だるげに駅舎の壁に身をあずけている男を見て、絹は内心、感心した。その心のほんの少しも、表には出さなかったけれど。
 一瞬、絹には彼がだれだかわからなかった。けれどすぐに、吐息が混じる話しかたや、どことなく世をすねたような目元に思いあたるところがあって、確信する――そうでなくても、絹を御子だなんて呼ぶ人間は限られている。
(一丁前の男になった)
 思いながら、絹は皮肉っぽく口の端をつりあげた。
「……帰ってきてあげたよ、“下僕”くん。お迎えご苦労」
「ねぎらいのお言葉ありがたく存じますよ御子サマ」
 ちっともありがたく思っていないような口ぶりは、絹の皮肉げな声色とよく似ている。壁から身を起こすと、男は絹の真正面に立った。
「絹」
 そして、あっけなく従者の顔と幼なじみの顔をとりかえる。
「かごの鳥、おめでとう」
 そうして少年がかんばせに浮かべた笑顔に宿っていたのは、まぎれもない、あざけり、憎しみ。かつての絹は、この感情をかつて少年だったころの彼から差し向けられた。それを置き去ったまま、町を出ていたのだ。
 負の感情を一身に受け、絹は思う。帰ってきたんだな。
「よけいなお世話。――浦葉」
 吐き棄てると、男――浦葉はふっと吐息をもらして、絹に手を差しだした。参りましょうか、なんて芝居がかった様子で言うのを、絹は無視した。

 都会の暮らしは、絹自身が思ったとおりその気性にあっていた。田舎町の妙なしがらみはなくて、なにもかもあっさりさっぱりしていた。乾きすぎているきらいはあったけれど、故郷の街よりはよほど暮らしやすかった。
 それでも絹がこの町に戻ってこなくてはならないことは、都会の高校へ進んだときからずっとわかっていた。
「花の帰りが近いわ」
 母から電話でそう言われたのはつい昨日のことだ。寮監から電話だと言われたときから厭な予感がしていたけれど、それが的中した。
「どうしてそれを、電話してくるの。花は、ずっと母さんがかえしていたじゃない」
「そうなんだけどね、お母さん、足くじいちゃって。とても山道、のぼってゆけそうにないの。ね、絹。呼ばれたときには帰るって、約束でしょう」
 たしかにやむを得ない理由で呼び出されたらおとなしく従うと約束しての、進学だった。絹はすぐに帰ると返事をしながら、内心で舌打ちした。――このままいけば、卒業まで帰らなくていいかと思ったのに。
 絹は、花がえりだ。先祖がえりでもあるけれど、花がえりでもある。
 この海と山に挟まれた土地の人間は昔も昔、大昔までさかのぼれば、花とのあいの子であるという。花の化生と子を成す人間は、そのころにはまだ多くいた。だんだんとその血脈も廃れて、ひとはひとに、花は花に棲家も存在も分かれていったけれど。
 絹の家系も血が薄くなったのにはちがいないが、ときたま先祖がえりの花がえりが出るのだ。花の血を色濃くその身に宿すものが。
 花がえりには、いにしえからの役目がある。
 花をかえすのだ。
 めぐる命の、はじまりの場所へ。

 絹の家は、丘をひとつ持っている。その丘は、町も、そのむこうの海も見わたせる高台で、あたり一面花が生えていた。といっても、つぼみのようなものだ。たまごの形にふくらんだ花弁は、たっぷりと光を含み、風にゆれるたびきらきらしたものをこぼれさせている。
「……ほんとうだ。ずいぶん、浮ついてる」
 花畑に歩みいりながら、絹はつぶやいた。裾の長い着物を身にまとっているから、不本意ながらも浦葉の手をかりていた。浦葉は絹を支えながら言う。
「近ごろ、蒸し暑かったから。少しばかり時期が早いらしい」
 この光でできた花たちは、花を先祖にもつひとびとの魂だ。たとえ血は薄れゆけども、本質までは変わらない。この血に住まう花の血をもつひとびとは、死んですぐ彼岸へゆかない。気候やもろもろの理由で違いはあるものの、およそひととせ、こうしてたまごのかたちをした花となって、風にゆられて過ごす。
 花がえしは、彼岸へむけてゆらめきだした花々を、ただしく導く。海からの風、山からの風、いずれにも迷わぬように。
 絹は花畑の真ん中に立った。つないでいた手をほどいて、絹はほとんどにらむように浦葉を見た。
「準備はできてる? 浦葉」
「いつでもどうぞ、御子サマ」
 浦葉と花をかえすのは中学以来だ。絹は余裕しゃくしゃくな浦葉にあわせて、いささかの緊張を覆い隠す。
 どちらともなく、ふたたび手をとりあった。久方ぶりのことだけれど、ふしぎと絹と浦葉の手はなじみあい、調和した。
 花がえしが花をかえすには、ひとりでは不十分だ。花がえしを、ひとの側にとどめておくものが必要だった。花がえしはその身の奥から花の血をゆりおこし、たちのぼらせ、くゆらせ、全身にみなぎらせる。そうしてひかりの花たちと同調するから、それらを導くことができる。
 そのとき花がえしは、かぎりなく花に近くなる。
 ともすれば、花の身に墜ちて戻れなくなるほどに。
 だから、絹の家では、花がえしとなる先祖がえりをさがすのといっしょに、その逆、限りなく花の血が薄く、ひとの身に近いものもさがす。それが、浦葉だった。
 絹はまぶたを閉じ、産まれた闇のなかで意識の先端をとがらせてゆく。体の芯が熱をもちだして、ぐつぐつと煮える。一面の花と似た色の光が、まなうらで曲線をえがく。一方で、地につけた足は根に、手のひらは葉に、まぶたは花弁に、変じてゆくような気がした――。
 けれどにぎりしめた浦葉の手が、ひとの手が、絹を人間だと言外に告げる。
 ああ、いまわたしはこの男にすがっているのだ。と集中する意識と別のところで、思った。中学生のころは意識しなかったはずのことを。自分がひどく頼りなくなってしまった気がして、絹はわずかにかぶりをふって、まなうらの光を追った。
 絹がとじたまぶたの外では、花が咲きほころびはじめていた。
浦葉は手に力をこめたまま、その光景をながめている。視界の端が――絹がいるほうがうすぼんやりとひかって、細かな雲母のようなものがただよってくる。光をおびた長い髪が、ひとふさ踊った。
 地を這うように、光が走り、花のひとつひとつに伝わってゆく。茎に、花弁の隅々にまで。花はそこここで、さらに光を増した。
 花が、かえる。たまごがかえる。
 浦葉は心のなかでとなえた。と同時に、近場のたまごのひとつは先端からほころび、五枚の花弁をのびやかに広げた。ひとつ開くと、またひとつ、またひとつと。
 開いた花は、やがて吹いた風にあおられて、ただよう光の粒子とともにがくからふわりと浮かび上がった。空一面を、すきとおった花弁が埋めた。絹が広げる金の粒は、花々を先導して空へのぼってゆく。
 浦葉はそれまで視界の外に追いやっていた絹を、横目で見やった。黒い髪の上を、金色の光の粉がすべる。垂れた髪の合間から白いかんばせがのぞき、伏せたまつ毛が陰を作っていた。鼻梁がすっと通り、桜色した唇はわずかに開いている。着物の襟から白い首筋がのぞき、金色に映える。
 浦葉は盛大にしかめ面をして、ふたたび視線を前に戻した。
 あとはかえりゆく花をながめながら、つないだ手で絹を引っ張り上げるような意識を持ちつづけていた。

 花をかえしおわると、絹は疲弊していた。花がえしは役目を終えるといつもそうなる。ふたりは、花がなくなって幾分閑散とした丘にとどまっていた。
 絹は思い出す。最後にこの丘に来た日のこと。あれは両親とさんざん大げんかして、命じられて伸ばしていた黒髪もざっくり切って、ようやく都会の高校へゆくことをゆるされた、すぐ後だった。あの日浦葉は、怒りとあざけりと、憎しみをもって絹をののしった――。
 絹から離れたところに座った浦葉が、呼びかけてくる。
「都会の学校は、楽しいかよ」
 絹は視線をあわせないまま応えた。
「楽しいよ。行ってよかったって思ってる」
「ああそうかい。いいご身分だな、絹は」
 浦葉は肩をすくめる。浦葉はずっと、絹のことがゆるせなかった。産まれたときから役目を負っているのはふたりとも同じなのに、絹だけがわがままをゆるされたから。
 浦葉の怒りは、単にこの町や家を思う気持ちばかりではなかったと、絹は思っている。
「……浦葉だって、ずっといやだと思っていたでしょう」
「そりゃな。産まれたときからおまえみたいな女の下僕とか最悪だ。時代錯誤にもほどがある」
 あっさりと言い切り、浦葉は草の上にあおむけに寝転がる。そして、けどな、と空に向かってことばをついだ。
「おまえだって、わかってるだろ。のがれようがないことくらい」
 ため息を押しとどめ、絹は観念してうなずいた。わかってる、わかってるよ、ということばを風に乗せる。
 絹と浦葉の生き筋を決め、縛りつけたのはこの町だ。
 けれど絹と浦葉をいつくしみ、育てたのもまたこの町だ。
 軽やかで乾いた都会に焦がれても、焦がれても、けっきょくのところこの身になじむのはわだかまった熱が生むうるんだ空気。束縛を厭えども、嫌いになることも憎むことも、できない。否、嫌い、憎んだところでこの町は“それ以前の存在”すぎるのだ。好こうが嫌おうが絹はこの町にもどってくる。絹の奥に眠る本能が――花の御子の血が、この町へ、この丘へ回帰する。
「おれ、おまえのこときらいだ。この町棄てて外の学校行ったこと憎んですらいる」
 そんなことばは、もう絹の胸に突き刺さりすらしない。絹に言い訳するつもりはなかった。この町を、いちど棄てた。それは事実なのだから。だいいち、浦葉に好かれたって気味がわるい、と絹は思う。
 けれど、たがえてはならないことがひとつあった。
「浦葉。……わたし、逃げないから」
 絹のかたい声音に、浦葉は少しだけ頭を動かした。
「母さんの後を、正式に継いだら。中途半端なことをするつもりはない」
 事実、今回だって、絹はすぐに帰ってきた。もう数ヶ月先、高校を卒業して帰ってくる覚悟も、もうできている。
 浦葉はじっと虚空を見つめていたけれど、存外すなおに「そうか」と返した。いくぶん絹は拍子抜けする。
 絹だって、浦葉のことはきらいだった。花がえりのつとめを果たさなければ謗る、この少年が。
 けれどどうしてか、浦葉のとなりを居心地わるいと、手をにぎりたくないと思ったことはこれまでただの一度もなかった。
「絹」
 ふいに浦葉が口を開く。
「おまえ、けっこう似あってるよ、花がえりも、この町も。おまえが思うより、ずっとな」
「……そうかな」
「ああ」
 そうして、浦葉は上体を起こした。絹を見ると、じつに性悪な顔で笑ってみせる。
「だから、ま、帰ってくるとき泣くんじゃねえぞ」
「泣くもんか」
 絹は負けずに睨み返した。

 花がえりは、先祖がえり。花を帰し、還し、孵す。その命のはじまりまで。
 花がえりの少女は、乾いたかの地ではなく熱にうるむこの地で、きっと咲きほころぶ。回帰は、はじめから血に刻まれているのだから。

2014.03.13 | material from Quartz | design from drew | written by Haruno

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