志島(しじま)すずかの通う女学校の裏庭には小さな池があり、そこには人魚が棲んでいる。遠子という名の、若々しく美しい人魚である。愛想はないが面倒見がいいので、生徒たちからは慕われていた。
 梅雨のただなか、曇天の広がるその放課後も、すずかは裏庭を訪れた。二人の少女が池のふちにひざをついている。広げているのはどうやら数学の教科書で、じきに中間考査だから教えを乞うているのだろう。遠子はもののけの類であるくせに、幾何や算術のたぐいにめっぽう強い。
 少女たちのかたわら、池から上半身だけ出してべたりと地面に腕をついているのが、遠子である。みどりがかった黒髪は腰に届くほどに長く、ゆるやかに波打ち、水面に広がっている。肌は真珠、伏し目がちの眼は翡翠。そして水につかった下半身は魚のそれである。鱗は鈍色だが日の下では虹色を帯びると、すずかは見たことがあるから知っている。
 草を踏む音で、少女のひとりが顔を上げた。
「あら、すずかさん。いま帰り?」
 同級生のひとりだった。すずかの家が女学校のある山の北側で、正門から出るよりこちらに回ったほうが近いことを知っているのだ。
 返事をしようと口を開いたが、遮られた。
「ほら美登里、おしゃべりするひまがあったら見直ししなさい」
 遠子である。美登里はいたずらっぽく笑った。
「いいでしょう、ちょっとくらい。クラスメイトとお話させてちょうだいな」
「あら、先生に意見するつもり? そういう生意気は、メネラウスの定理くらい正確に使えるようになってからにしてよね」
 とん、と遠子の長い指がノートの上を叩く。促されて視線をやり、美登里はあっ、と声をあげた。あわてて鉛筆を手に取り、まちがいを直しにかかる。すずかは蚊帳の外に追いやられ、所在なく立ちつくす。
 美登里は幾何の問題に手こずっている。
 棒立ちのすずかに、遠子が流し目をくれた。きわだって赤い口唇が開く。
「いま授業中なの。ごめんね、すずかちゃん」
 もとより伏し目がちの眼が、すう、と細められた。翡翠の輝きが翳り、底冷えのする酷薄さをはらんですずかを刺す。
 いまだ性のあわいにあるような華奢な肢体が、梅雨空の下でわずかに震えた。
 ――ああ、この眼だ。
 学校指定の鞄の取っ手をぎゅうと握りしめ、すずかは思う。
 こちらのほうが近道だから、というのは事実だが口実にすぎない。
 すずかは毎日、遠子に会いに裏庭に回っている。いとわしげに細められる翠の目で見つめられるために。

 女学校に入学した当初、人魚という存在におののく新入生の少女たちは、そう時間をおかず遠子に慣れる。口をそろえて少女らは言うのだ――彼女、意外とやさしいのよ。
 それはまったくたしかな評価なのだろう。帰路につくたび、すずかは遠子と語らう少女たちを見ている。ある者は美登里のように勉強をみてもらい、ある者は恋愛相談に乗ってもらう。遠子はめんどうくさそうなポーズをとっていたが、その実交わされる声には慈しみがあった。
 だが、ただひとりすずかに対してだけは、遠子は突き放したような態度をとる。極めつけはあの眼だ。とくになにをした覚えもないのに、初めて会ったときからあのつめたいまなざしは変わらない。
 はじめは戸惑った。なにか気に障ることをしたのかと悩みもした。
 ――はじめは。

 翌日も、空は曇っていた。寝床で身を起こすとじっとりと寝汗をかいている。湿っぽい空気が肌にからみつく、不快指数の高い朝だった。
 薄い掛け布団から這い出て廊下へ出る。ひとの気配はなく、薄暗くひっそりとしている。フローリングの感触があなうらにつめたい。
 顔を洗って髪を整え、部屋に戻る。寝押ししていたプリーツスカートを布団の下から引っ張り出した。墨のように黒いセーラー服。白いセーラーカラーには、太い黒のラインが一本。
 セーラー服を着込んで、すずかは姿見の前に立った。やせっぽっちの体は、ゆとりのある制服のなかで頼りなげに泳いでいる。肩までの黒い猫っ毛はさんざん洗面台で梳かしてきたのにまだふわふわと落ちつかない。子鹿のようなつぶらな眼、小さな鼻、うすい唇。全体的に小作りな顔は、印象がうすい。
 食卓へ出て行くと、ともにふたり暮らしをしている祖母の姿はない。もう畑に行ったのだろう。かわりに書置きだけがあった。放課後になったら裏の蔵にある花器を出しておくように、とある。友人に譲るのだそうだ。
 書置きを折りたたんでポケットにしまうと、いつもどおり、ひとりで朝食を摂った。機械的に白米を咀嚼していると、体の内側はどこまでもからっぽになっていくようだ。
 わたしはどこにもいない。
 ひとりきりの食卓でつぶやく。それはだれに聞かれることもなく、沈黙にからめ取られた。
 登校し、教室に入っても、やはりすずかはひとりだ。窓際の自分の席に座ると、ホームルームを待つまでのあいだ暇になる。強いてすずかと話をしようとする生徒はいなかった。友だちがいないというわけではない。けれど。
 いまわたしは、どこにもいない。
 容色がすぐれているわけでも、目立って勉強や運動ができるわけでもない。自己主張はしない。すずかは無個性な少女だった。
 目を閉じると、自分の存在は薄まって、とうめいになる。わたしはどこにもいない。今度こそ声に出してつぶやこうとした、せつな。
 暗く光る翠色が、閃光のようにまなうらの闇にはじける。細められた双眸。刃のようにつめたいまなざし、それは真っ直ぐにすずかに向かってきて、やわい肌を傷つける。苦しいと思わないではない、けれどもっと傷ついてもいいと思った。
 とうめいになりかけた身の、輪郭のたしかさがわかるから。
 震えが、くる。体の芯から。うしろ暗い歓喜が湧いてきて、体の末端へとさばしってゆく。
 はじめは戸惑った。なにか気に障ることをしたのかと悩みもした。
(いまは、ちがう)
 ――遠子、あなたはだれにでもやさしい。
 それなら憎まれているわたしだけが特別なのだと、うぬぼれていいだろうか。

「遠子はどうして、この池に住んでるの?」
 帰りしな、そんなことばが聞こえてすずかは足をとめた。裏庭に面した校舎の影からうかがうと、いつものように二三人の少女をはべらせて、遠子が池面から上半身だけ出している。
「なによ急に」
「だって気になるじゃない。この池で生まれたの? それとももともとは、海にいたとか」
「ばかね、人魚にも淡水に棲むのと海水に棲むのがいるのよ」
「この池は」
「淡水」
 知らず話に聞き入っていた。盗み聞きなんてはしたないと思うのに動けない。率直に言うなら、気になったからだ。遠子がどこから来たのか。
 遠子は不遜にほおづえをつき、口を閉ざしていた。裏庭の木々がざわめく。ぴちゃん、と水音がした。遠子が尾びれを水面に出したのだった。右に左にゆらゆら揺れる尾びれが、曇り空の下の淡い光を受けて光る。
 沈黙が気まずさに変わるかと思われたそのとき、遠子は口を開く。
「……昔はもっと、べつのところにいたの」
 ――曰く。もとの彼女の棲家は、この狭苦しい池よりよほど広く、深く、そして静かな沼だったという。底の水はつめたく、遠子はやわらかな泥濘を褥として眠り暮らしていた。
 けれどいまとなっては、ふるさとの場所もわからない。
「もう何年前になるかしら。悪い男につかまってね」
 どこから聞きつけて来たのか、沼を人間の男が訪れたのだという。男は道に迷ったふりをしていたが、実のところ目当ては人魚だった。遠子は騙され、眠らされ、次に意識が回復したとき、どことも知れぬ狭い池のなかにいた。
「そいつはもう死んだから自由の身だけど……まあもとの沼の場所も、よくわからないし。ここも居心地は悪くないから」
 聞いていた少女たちは口々に遠子になぐさめの言葉をなげかける。男をののしりもした。
 けれどすずかの胸に去来するのは、同情でも男への拒絶感でもない。
 彼女の眼は遠子の横顔に釘付けになっていた。
 過去に思いを馳せる翠の目は、遠子をかどわかしたという男を見ている。刃めいた酷薄さをともなって。
(その眼は――わたしのものなのに)
「どんなやつだったって? もちろんよく覚えてるわ」
 遠子の話をこれ以上聞きたくなくて、すずかは踵を返す。裏庭は通らず、遠回りになる正門からの道を使って帰った。

 なにもする気が起きず、寝入ってしまいたかった。けれど制服のまま寝床に突っ伏したところでポケットの中身がかさりと音をたて、今朝の書き置きを見つけてしまう。蔵から花器を出しておくように。課せられた仕事を思い出し、しかたなしに重い体を起こす。
 もう日は落ちており薄暗い。蔵へゆく道すがら見上げた空には低く雲が垂れ込め、あわく水のにおいがする。そういえば夜からは雨の予報だったか、とすずかは頭の片隅で思った。
 重い扉を開き、蔵のなかに身をすべり込ませる。ひんやりとした闇がすずかの肌にまとわった。花器はどこだろうか。ひとまず食器のたぐいを集めた一角に寄り、木箱のなかをあらためる。しかし目当ての白い陶器はなかなか姿を現さない。
(となると……奥、かな)
 視線をやった蔵の奥は、ひときわ雑多に物があふれている。あのなかから探し当てるのは骨だ、とため息をつきながら歩み寄る。
 壁に寄せて書棚があり、その手前に文机がある。文机のの上にまで書籍やら古道具のたぐいが侵食しているが、花器はなさそうだ。
 見回して、書棚の上の箱が目についた。記憶にある花器はあのくらいの大きさではなかったか。小柄なすずかではあの高さまで手が届きそうにない。少し考えて、文机の上に乗ってしまうことにした。
 机上のものを下ろし、靴を脱いで天板に足を乗せる。古い机は軋みながらも、すずかの体重を受け止めた。手を伸ばす。どうにか届きそうだと背伸びをし、箱に触れたときだった。
 思いのほか重みのある箱におののいて、体幹がぐらつく。あ、と思ったときには足を滑らせていた。
 地面に尻もちをつく。びりびりと体に衝撃がはしったが、投げ出してしまった箱の中身が気にかかり、あわてて駆け寄った。
 さいわいにして、箱の中身は花器ではなかった。
 古ぼけた大学ノートがぎっしりと詰まっている。表紙には日付と思しき数字の羅列。いまから二十年ほど前のものだ。なんの気なしに一冊取り上げてなかを見ると、なにかの研究日誌だと知れた。神経質そうな細かい文字がびっしりと並んでいる。
 ぱらぱらと頁をめくり、流し読みをする。
 そしてすずかは、背を氷塊が滑り落ちるような感触を得た。
 息せききってノートを箱から出す。いちばん日付の若いものを探し当てると、机の上に開いた。
 ――八月十二日 ついに人魚を手に入れた。学校の裏の池に放流し、観察開始。環境の変化に順応してくれればいいのだが。
 脳内で、たったさっき聞いた声が反響する。――昔はもっと、べつのところに――悪い男につかまって――。
(まさか……まさか)
 読めば読むほど日誌のなかにある人魚の像はすずかの知るそれに近づいてゆく。みどりの黒髪、輝く珠の肌、翡翠の眼。
 この日誌を書いたのは、誰か。
 なぜこんなものが、ここにあるのか。
 ……すずかは知っている。自分が物心ついたときから祖母に育てられているのは、赤子のころに両親が死んだからだ。ここは父の生家で、けれど彼が死んでしまってから遺品は残らず蔵に収められた。
 父は生物学者となる夢にやぶれ、女学校の教師をしていたという。
 力なく手を下ろす。ばた、と屋根が鳴った。予報のとおり外で雨が降り出したのだった。雨粒が屋根をたたく音が闇のなかに満ちてゆく。腿の上で、すずかは手を握りしめた。
 父なのだ。遠子をかどわかした悪い男は。遠子が憎んでいるのは。
 ぎゅうと閉じたまなうらに、翠色の双眸が浮かんでくる。……恐ろしい思いつきが身の裡を占めていた。
(見ていたのはわたしじゃないのかもしれない)
 ほんとうはそのまなざしが、すずかを通りこして父に向けられていたのだとしたら?
自分だけが憎まれているだなんて、懸念したとおりのうぬぼれで、彼女の特別が別にいたのだとしたら?
 雨が強く、強く、たたく。騒がしい音が思考を侵食して、じっとしていられなくなる。
 すずかは立ち上がり、蔵の重い扉を押しあけた。たちまち激しい雨が少女の細い体を痛めつける。けれどかまわず濡れた地面を蹴り、走り出した。

 あたりはもうすっかり暗く、山道となればなおさらだった。視界がきかないのも相まってぬかるみに足をとられ、すずかは何度か転んだ。ようやく学校の裏庭にたどりついたときには、ひたいに髪を張りつかせ、服からしとどに雨水をしたたらせ、あちこち泥まみれのみじめな姿になっていた。
「遠子!」
 池のほとりに立ち、雨を受けて騒ぐ水面に叫ぶ。少しの間を置いて、底からゆらりと影が浮かびあがる。遠子が顔を出し、すずかを認めて目をしばたいた。
「なんの用? こんな時間に」
「あなたをここに連れてきたのは、わたしの父ね」
 一息に言い切る。
「……知ってたの? 知ってて……知ってたから、わたしのこと邪険にしたの」
 自分のものとも思えない底冷えした声が、くちびるを割って這い出る。すずかの内側で暗い情動が燃えていた。父が憎くてしかたがない。もう顔も覚えていない男だ、こんなにも強い感情をいだいたのははじめてだったかもしれない。
 雨に濡れた手をぎゅうと握り締める。爪が食い込んで痛みを産んだが気にもならない。
「答えてよ」
 遠子は能面のような顔ですずかを見返し、黙していた。冷静な様子によけいに熱が煽られ、再度問おうとした、そのとき。
 赤い口唇が弧を描き、あざやかな笑みが咲いた。心底この状況が楽しくてたまらないというような、悪趣味な色の花のような、笑みである。
「よく似てるわ。その髪のふわふわしたとことか、鼻のかたちとか。だからすぐ気づいたの、すずかちゃんが志島先生の娘だって」
 わあん、と耳鳴り。ことばの意味を解するのに時間を要した。ぞっとするような悪寒が四肢をわななかせる。
 ――知っていたのだ。すべて。
(わたしのものだと、思っていたのに)
 あの暗くかがやく翠色のまなざしは、切りつけられる痛みは、すずかのものではなかった。それなのに自分は特別だとうぬぼれて……なんという道化だろう!
  濡れた地面に、力なくひざを着く。絶望する少女の細い肢体を、雨が蹂躙した。水音がして、うつむく彼女のかたわらに影が差す。遠子が地上に上がってきたのだった。すずかの耳もとに口を寄せ、囁く。
「どうしてわたしが数学得意だか、考えたことある? 志島先生が教えてくれたのよ。へんな人だった、観察対象にものを教えるんだもの」
 聞きたくなかった。両の手で耳をふさぎ、やめて、と叫ぶ。なおも遠子は赤い口唇を開き、志島教諭の話をしようとする。耐えきれずに、すずかは遠子の口をふさいだ。
「わたしを見て。父じゃなくて」
 一度触れてしまえば、歯止めがきかなくなった。心底からののぞみを口にして、闇のなかでなおきらめく翡翠を目にすれば、張りつめていた糸はあっけなく切れてしまう。
 指を目もとに這わせる。目もとの皮膚は薄くやわらかく、遠子の体温を伝えてくる。この薄い皮いちまいへだてたところに、遠子の肉があり、神経があるのだ。欲していた珠玉を手にしたような気になったが、錯覚でしかない。わたしのものではない眼。わたしのものにしたい眼。清廉な少女の表情が、苦痛にゆがんでゆく。
「見てほしいの」
 それはほとんど懇願だった。かたく閉じていた慎ましいくちびるがほころび、翡翠にくちづける。敏感なくちびるの皮膚でまつげの感触を感じてしまうと、もうだめだった。おさえがきかず、今度は舌を使っている。
「……かわいそうなすずかちゃん。わたしなんかに誑(たぶら)かされて」
 遠子が歌うように言う。けれどすずかの熱に浮かされた頭では、なにを言っているかわからなかった。
 やがて顔を離したすずかは、はあはあと色づいた息をもらしている。全身を雨水で濡らし、両手(もろて)でおんなに縋り……欲のにじんだ、目。そこに教室の隅で所在なさげにしていた少女の影はない。
「すずかちゃんが嫌いよ。だって志島先生の娘だもの」
 わざと刃をむき出しにすると、すずかは痛みをこらえる顔をする。遠子はひどく満足げな息をついて、ことばを継ぐ。
 嫌いだけど。でもね。
「その顔は、大好き」
 遠子はすずかの細い首に腕をまわした。華奢でもろい少女の体を胸に引き受け、腰をうねらせて後ろに跳ぶ。長い尾びれがうつくしい曲線を宙に描いた。池の水がふたりの体を飲みこんで、雨音が遠くなる。
 つめたい静寂に身をまかせ、まぶたを閉じる前のほんの一瞬。翠の眼がいつくしむように自分を見ていた気がした。

シーモア

material from Raincoat. | design from drew | 15/06/25

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