せえの、で息を
そのミュージアムで物言うものは、向日葵ばかり。
大きな国の、中くらいの町の、いちばん小さな村。ひろがるあおあおとした草野原のうえに立つ、硝子でできた完璧な立方体。夏のひととき、硝子窓は青空をうつしてきらめき、建物をかこんで咲く花の黄は、見るものの目に焼きつく。そこに、けたけたと向日葵たちの笑う声が響くのだ。彼女らは、たいそうおしゃべり好きな性質だ。
けれども向日葵たちとうらはらに館長はごきげんななめ、眉間のしわを深くする。彼は静けさを愛する男だから、夏が来ると、目下の敵――向日葵たち相手に、戦争をはじめる。この片田舎、余暇を美術鑑賞に費やそうという人間はほとんどなかったが、夏のさなかに汗を散らして奔走する館長はちょっとした見物だ、とうわさになっていた。
とはいえそれは、ひとまず横に置こう。いま語られるべきは、館長と向日葵の戦争の物語ではない。
これは、少年と少女の物語だ。
ひと嫌いが館長をしていることも相まって、このミュージアムを訪れるものはほとんどない。けれども、かろうじて常連と言っていい少年と少女が、ひとりずついる。
少年の名はミヤコワスレ。淡い金髪にむらさきがかった青い瞳。都会的なすがたはへんぴな村から浮きあがる。
少女の名はメブキ。ひろがり波うつ赤髪も、琥珀色のひとみも、それから鼻まわりに浮いたそばかすも、この村においては凡庸だ。
これより語られるのは、少年と少女が声を上げるまでの物語。
ミヤコワスレとメブキは、ずいぶんまえからおたがいのことを認識していた。けれども長らくことばを交わすことはなかった。それというのも、彼らはどちらかといえば無口な人間だったからだ。おまけに、わずかでも話し声があれば、館長が目を血走らせてやって来る。ことによっては、神聖な場所を侵した罪人≠ニしてつまみだされてしまう。だから、はじめて彼らがミュージアムを訪れた秋も、雪深い冬も、風温む春も、この場は静謐をたもっていた。
ふたりのお目当ての展示品は、いつもおなじだ。片側の壁が硝子張りになった廊下のなかほどに、ぽつんとひとつ、かけられた額ぶち。それは幼いふたりの身長ほどもある。飴色に照りかがやく木はゆるやかにうねりをえがいて、波もようのなかに魚が彫りこまれていた。ひときわ大きい魚が、額ぶちの天辺で身をくねらせている。
その額縁に、絵は入っていない。いや、なにもえがかれていない真っ白なカンバスがはめこまれてはいる。けれど、作品名も作者もしるされておらず、そのカンバスを作品と称することはできそうになかった。
少年が先のことも、少女が先のこともあった。いずれにせよ、彼らは額ぶちの真正面には立たない。いくぶん真ん中からはずれたところに立って、もうひとりを待つでもなく待っている。ミヤコワスレもメブキも、一心にその額ぶちだけを眺める。ただ、黙したまま。そして陽がかたむきだすと、家路につく。季節は、秋にはじまり春までめぐった。
そして、夏。館長は向日葵のもとへゆき、不在である。メブキが歩いてゆくと、ミヤコワスレはもうそこにいた。腕を軽く背側で組んで、立っている。メブキもおなじようにした。
背後の窓からのひかりに、くろぐろと影が伸びる。飴色の木は、夏の日差しを取り入れるとさながら琥珀のように深みを増した。
蝉の音すら、遠い。向日葵たちのおしゃべりは、館長の一喝で、いっとき止んだ。
静寂のなか、音がする。空気に溶けそうにいまにも消えそうにひそやかな、小さな風が起こる。それは、吐息の音だった。ふたりぶんの吐息の音が、交わる。
どちらともなく、声を上げた。ねえ、と。
「きみからどうぞ、メブキ」
「いいえ、きみからどうぞ、ミヤコワスレ」
はじめて、ふたりの視線は交錯した。ミヤコワスレの虹彩の色は、むらさきのような青。メブキの見知った色ではなかったが、それでも彼女はこれはなにかしら花の色に例えられるべきだと直感した。
ひとしきり視線をからめ、口をひらいたのはミヤコワスレのほうだった。
「ぼくの名を知っていたんだね」
「きみこそ」
けれどそれは、さして特別なことではないだろう。この小さな村、名を知らないものを挙げよというほうがむつかしい。
メブキはミヤコワスレに歩みより、手を出した。ミヤコワスレはすこし驚いた顔をしたものの、手をにぎった。ふたりの握手に込められたことばは、はじめまして、だったか、ごきげんよう、だったか。ことばを交わしたことはなくとも、ミヤコワスレもメブキも、はじめましてと言うにはおたがいをよく知りすぎていた。
ミヤコワスレにまつわる、後ろ暗いうわさもふくめて。
それでもメブキは、ここでそんな話をしては野暮だと思った。だからただ聞いた。
「どうしてこの額ぶちを、見に来るの」
「ここには、ぼくのひみつがあるから」
ミヤコワスレが顔を額ぶちのほうに向けると、淡い金の髪が揺れ、ひかりに溶けた。まつげの陰にひそむ花の色が、濃さを増す。少年は、独白めいた調子でつづける。
「といっても、だれでも知っているひみつさ。ここには、魔法がある」
白いてのひらが、ほんの一瞬、ほんのわずかに、額ぶちの表面にふれた。そのときメブキは、ひかりの流れを見た気がした。ミヤコワスレのうちに巣食う得体の知れぬなにかが、ゆびさきからほとばしった。
もうひとつ、メブキがまたたいたときには、ひかりはまぼろしと消え、代わりに一匹、魚が泳いだ。てのひらに乗るほどの、鈍色をしたそれは、尾ひれをくねらせ宙をゆく。あたりを一周してから、額ぶちの彫刻に戻った魚を見やり、ミヤコワスレは笑んだ。笑んだが、率直にかなしげだった。
「ねえメブキ、ぼくはみんなの言うとおり、この村にいてはならない生きものなんだよ」
そうするつもりは少しもなかったのに、けっきょく後ろ暗いうわさの話になってしまうのだ。メブキはあわれみに近いものを感じた。
視界のはしに、自分のくしゃくしゃの赤毛が揺れている。この村ではあまりにありふれた色と質。対してミヤコワスレのつややかな金は、異質そのもの。ここにあって似つかわしいのは、花のかんばせより土によごれたてのひらだ。
異なる、ということ。
それはきっと、ミヤコワスレに与えられた祝福で呪いだ。
雑貨屋の息子のミヤコワスレが魔性の子だというのは、村のだれもが言っていることだった。それはうわさだ。けれどだれもが疑わないうわさは、ときとして真実になる。
父は黒い髪をした、骨の太い男。母は赤茶けた髪をした、おせじにもうつくしいとは言えない女。産まれた子は金の髪にうつくしい顔、華奢なからだ。家族のだれとも、似てはいなかった。そして彼は赤子のころから奇妙な力を持っていた。ほかのだれにもできないことが、できてしまった。
母がけがらわしい魔のものと不義をして産まれた子なのにちがいない。そう、村のものは口々に言った。謗りはやがて黒い雲になり、じわじわと彼の母を取り殺した。父は自らにまったくといっていいほど似ていない息子を愛さなかった。
かくして彼はひとりぼっち。友だちだってひとりもいない。なにも知らない子どもたちにも、親が口をすっぱくして、雑貨屋の息子にはかかわるなと言い聞かせるせいだ。
「メブキは、ぼくと遊ぶなって言われなかったの」
夕陽のなかをつれだって家路につきながら、ミヤコワスレは意外な思いでメブキをながめていた。陽ざしよけの麦わら帽子をかぶって、その顔はよくうかがえない。けれどメブキはミヤコワスレを避けるそぶりを見せないばかりか、こうして並んで歩きさえする。
「わたしは、ね」
つけくわえるように、ほかのきょうだいたちには言っていたけど、とつづく。その口ぶりはどこかしらじらとして、冷めていた。
そこでミヤコワスレは思いだす。メブキの家は、たいそう子だくさんだ。七人兄弟だったか、メブキはそのなかのちょうど真ん中なのだ。
「七人もいれば、ひとりくらい忘れてしまう」
両親は共働きでいそがしく、おまけに病気の祖父をひとり、かかえてもいる。聞き分けがよくもの静かなメブキは、ほうっておかれがちだった。
強い風が吹いた。メブキの赤い髪がなびき、かぶった麦わら帽子をも揺らす。頭から離れかけたそれをメブキは手でつかもうとした。が、それはかなわず、夕暮れ空に帽子が舞う。
風が帽子を、向日葵畑のほうにはこんでいった。ふたりして追いかける。メブキが逃げゆく帽子をひろいあげて顔をあげると、自分より背の高い向日葵たちが、こちらを見ていた。
――あら、子どもが来たわ。
向日葵のひとつがそう言うと、いっせいに輪唱がはじまった。口々にものを言い、さざめきがふたりを中心にひろがる。笑い声も混じっていた。
――かわいそうな子どもたち。
くすくす、けたけた。かたむいた陽に照らされ、向日葵たちのすがたはどす黒く染まる。悪意のない声だ。けれども、だからこそ、底知れないまがまがしさを秘めていた。
――魔性の子と、いらない子。いなくなったほうがいい子どもたち。
――いつ間引かれたって、おかしくないんじゃない。
メブキの胸はつきんと痛んで、気づけば口をひらいていた。麦わら帽子をにぎる手に、力がこもる。
「もう日は暮れたんだから。静かに、して」
――おお怖い。
――子猫ちゃんはごきげんななめ。
――しょうがないから黙りましょうか。かみつかれてはたまらないもの。
メブキがふきげんそのもの、といった顔でいると、やがて音は止んだ。ミヤコワスレの顔をうかがうと、諦念めいたものをのぞかせていた。
「父さんからすれば、ぼくは憎たらしいことこのうえないだろうね」
向かいあったミヤコワスレの目に、夕陽がちらつく。青紫に橙が混じれば、虹彩のなかにもうひとつ、夕焼け空が産まれた。ややもすれば、目のまえにひろがる実物より上等な空。
こんなにきれいな子どもを、メブキはほかに知らない。
ほんとうに、ミヤコワスレは魔性の子なのだろうか。
メブキの心うちを察してか、ミヤコワスレはふっと笑みを漏らした。
「ぼくにだって、たしかなことはわからない」
自分がけがれた血の申し子なのか、否か。
「知っているのはたぶん、母さんだけなんだ」
そして真実を知るものは、すでにこの世にいない。だれにもたしかなことが言えないいま、ミヤコワスレは魔性の子であるしかない。
少年はゆっくりとまたたいて、顔をそむけた。
「……いつ殺されても、おかしくないのなら」
その先につづくことばが、メブキには聞こえた気がした。
いっそ、自分で。
メブキはミヤコワスレに歩みより、手くびをつかんだ。いくぶんびくついた少年を制し、耳もとでささやく。
ここじゃないどこかへ、行きたいと思ったことはない?
長いような短いような沈黙がながれた。ふたりの頭上で、おそろしげなかたちをした雲が地平線の向こうへ吸いこまれてゆく。その後を追って、夜が、迫り来る。
「いっしょに来てくれるの」
かすれきった声に、赤髪の少女はうなずいた。
その、夜更け。昼間は晴れていたけれど、いまはまばらな雲が月をおおい隠している。月あかりのとどかない夜闇に乗じて、ミヤコワスレとメブキは、ミュージアムにしのびこんだ。向日葵たちはうつむいて黙りこくり、あたりを支配するものは、しんしんと降りわだかまる静けさだ。そのぶん、みがきあげられた廊下をたたく靴の音が大きく聞こえた。けれど気配をひそめた甲斐あってか、館長が飛んでくることはなかった。
ふたりのお目当てはいつもおなじ。魚と波の、背たけほどもある額ぶち。
片手と片手をつなぎあう。メブキの手はひどく汗ばんでいるのに、ミヤコワスレのそれは、ゆびさきまで冷えきっていた。
魔性の子と呼ばれた少年は、手をのばす。ほどなくしててのひらが額ぶちにふれると、ゆびさきにひかりが灯った。まばゆくもやわらかなひかりは、額ぶちに伝わるとそこをぐるぐるとめぐる。あるときぱちん、とひかりが失せて、暗闇と静寂がいっぺんに訪れた。
額ぶちが、ぐにゃりとゆがむ。ゆるやかにうねる木が宙に溶けだしたかと思うと、ふたりの子どものほほに、つめたいものがふりかかる。いつしか波もようの額ぶちは水と変じて、床へと流れだしていた。みるみる、足もとが水で満たされる。
そのとき背後の空で、雲が動いた。現われ出た月が、硝子ごし、みなもにきらめきをふりまく。そのなかで、ミヤコワスレとメブキは見た。かたい木の波のいましめから解き放たれ、大きな魚が泳いでゆくのを。
水はとどまることなくあふれ、やがてふたりの顔の高さまでせり上がる。
かげりに浮かぶふたつの色のひとみが、せつな、交錯した。そのとき彼らが念じたことは、細部はちがえどおなじだっただろう。
――やめてしまおう。せえの、で息を、やめてしまおう。
薄くもやがかかる向こうに、空を見上げる花と橙色の空がある。幾度かまたたいて、メブキは目が覚めたことを知った。まるでひとごとみたいに。
意識がはっきりしてきて、よもやあれは夢だったのではあるまいかと思った。というのも、からだを起こしてみるとそこが向日葵の群れ咲くなかだったからだ。けれども、ちがう。立ちあがって背のびして見回しても、硝子の立方体の建物は見つからないばかりか、向日葵畑の果ても見えなかった。地平線まで、黄色い花がおおいつくしている。
ここはどこだろう、とは思わなかった。さっきまでいた場所ではないどこかだと、それさえわかれば十分だった。
がさり、とかたわらで音がする。見れば、ミヤコワスレが目をこすりながら、起き上がるところだった。
メブキはそのかたわらにかがみこみ、名を呼ぶ。――けれどそれは、かなわなかった。
声が、出ない。
どれほど懸命に口を動かし、音を紡いでも、それがメブキの耳に聞こえることはなかった。むろん彼女は、声の出し方をよく心得ているし、いまだってそのとおりにしている。けれど、声は出した端から、なにものかにすっかりからめとられてしまうようだ。
ミヤコワスレの耳にもメブキの声はとどいておらず、彼は怪訝に思った。けれどなにごとかと問い返そうとしたそのとき、顔がゆがむ。ミヤコワスレも、声を出すことができなかった。
呆然と見つめあうふたりのところに、声が降る。
くすくす、けたけた。
――あら、子どもが来たわ。
――かわいそうな子どもたち。
はっと我に返れば、空を見ていたはずの向日葵たちがふたりを見下ろしていた。右も左も、前も後ろも、こちらを見ている。包囲されている感覚に、子どもたちの肌は粟立つ。
――魔性の子と、いらない子。いなくなったほうがいい子どもたち。
――いつ間引かれたって、おかしくないんじゃない。
いつかなら、ここでメブキが声を張り上げた。けれど声をうしなったいま、ふたりにできるのは、うずくまって降りそそぐ声を浴びることだけだ。声が大きく、かん高くなる。
――そうね。きっと声も上げずに、されるがままで死んでいくんでしょうね。
――だって、この子たち、言ったもの。息なんかやめてしまおうって。それって声なんかいらないってことだわ。
向日葵はほとんどあざけりに近い笑いを漏らした。
――あなたたちには必要ないものなんでしょう。だからわたしたちがもらったまでのことよ。
ふたりの声は、おしゃべりな向日葵たちに盗られてしまったのだった。どうしてそんなこと、という恨みがましい思いが琥珀色の目によぎる。向日葵たちはちっとも悪びれなかった。
――だってあなたたち、いままで声なんかすこしも上げなかった。
そうよそうよ、というさざめきが大きくなり、しまいに波になる。ふいに、見わたすかぎりの黄色の花弁が宙に浮かび上がった。かと思うと、声の高波といっしょに、ふたりのもとにどっと押し寄せてくる。ひたいに、ほほに、口に、胸に、手足にぱたぱたとぶつかる花弁に視界がおおわれる。
黄色の波が流れて去りゆくと、今度はふたりは、湖のまんなかにいた。ぽつんとひとつ浮かんだ小さな島に座っている。湖面は凪いで、水平線はおぼろにかすんでいた。
なにがなにやらわからないでいるうちに、それははじまった。
水鏡に、えがきだされてゆく風景がある。
いつかの、学校からの帰り道。魔性の子、けがらわしいやつとののしられ、石を投げられるミヤコワスレ。
いつかの、ひさかたぶりに家族がそろった食卓。きょうだいにさえぎられ、自分の話などひとつもできないメブキ。
それでもなにも、言えないふたり。
痛ましい記憶は、つぎつぎとみなもに浮かんでは消える。ミヤコワスレの、メブキの、口をつぐんだ顔。あるときはくちびるをかみしめ、あるときはあきらめを表情に揺らがせて。
それでもなにも、言えないふたり。
メブキのゆびはいつのまにか、硬い地面をかきむしっていた。あたりまえに、爪は傷みゆびは痛む。けれどそうせずにいられなかった。なにかがひっかかっている。なにかが。
凪いだ湖面に波紋が生まれた。
それはほんの小さな波紋だったけれど、たしかに目のまえの虚像を揺らがせた。みじめな顔が、揺れて揺れて、ゆがむ、にじむ。
ミヤコワスレが、地面にころがっていた石を投げいれたのだった。
少年のささやかな抵抗は、そこで終わってしまう。青むらさきのひとみはどこかうつろで、湖面の風景を見ているのか見ていないのか。それでも彼のしたことは、少女の手を止めるのに十分だった。
なにかが、ひっかかっていた。
なにも言えない、ふたり。
否。それは、ちがう。
なにも言わなかっただけだ。
メブキは琥珀の目を伏せ、思い返す。親に見向きもされないから、どこかへ行ってしまいたかった。どこか、ここじゃない遠くへ。だからひとの来ないミュージアムに足しげく通った。だけれど、自分は自らなにか働きかけたことがあっただろうか。ほかのきょうだいがメブキを押しのけたのなら、メブキだってきょうだいを押しのければいい。それをしたことが、しようとしたことが、一度としてあっただろうか。
なにも、しなかった。声を上げられなかったのではない、メブキは、声を上げようともしなかった。
そんな弱さを見て見ぬふりして、こんなところまで来た。だからひっかかっている。メブキのわがままで、村からつまはじきにされたミヤコワスレを利用した。気に食わない世界からのがれるための、大義名分として。それがどんなに自分勝手なことだったか。
メブキは、ミヤコワスレのことなんかなにひとつ考えてはいなかった。
氷のようにつめたいなにかが、ほほを打った。ゆびでぬぐうと、それは水滴だった。目をひらき、空を見上げる。うってかわって、曇天だった。はじめの一滴をきっかけに、後から後からつめたい水が落ちてくる。みなもは荒れ、うつりこむ記憶はかき消えた。代わりに、無数の波紋のなかにゆううつな灰色が宿る。どろどろと雷がとどろき、湖に波が起こる。嵐に、なった。
深いところから、地響きがする。それはどんどん近くなっている。
名を呼びたい、とメブキは思った。ほうけた顔をしてただ座っている少年の名をさけびたかった。けれど、声が出ない。雨水が入りこむのもかまわずにがむしゃらに口を動かしても、くちびるのぶつかる音がむなしく鳴るだけだ。
かぶりを振る。水を含んでおもたくなった赤毛が、ぶるりと震えた。
声が出ない、なんてことはない。そう、いまわかったはずだ。これはただ、声を出そうとしていないだけ。
メブキは立ちあがり、濡れて滑る手で、自らののどをつかんだ。裂けて血が出てもいいから、声よ、声よ。響け。
「ミヤコワスレ」
自分の声のはずが、ひどくなつかしかった。
突然産まれた音に、ミヤコワスレのひとみに急速に色が戻る。うつろだった眼窩に鈍くはあるもののひかりが灯り、呼んだ少女のほうを見る。その目にメブキがなにかを見いだすより早く、ひときわ大きな地響きがした。今度は、大きな揺れをともなっていた。
メブキはからだの並行をうしない、しりもちをつく。そのとき、重く不穏な音がした。
目のまえに、大きな亀裂。それは見るまに右に左にひろがって、小さな島をふたつに分かつ。ミヤコワスレと、メブキを分かつ。
激しい波に揺られて、ふたつの大地はじわじわと離れる。高い波が起こり、ミヤコワスレの島を襲う。たよりない岩盤は耐えきれずに、ずぶずぶとしずみはじめる。
それでもなお、ミヤコワスレは脱けがらのままでいる。
このままなら、彼はほんとうに終わってしまうだろう。今度こそ、息をするのをやめてしまう。それじゃだめだ、とメブキは思った。
いま、どうすればいいか。さいわいにも、彼女にはそれがわかる。手を差しだして、言えばいい。
「いっしょに、帰ろ」
それが生半可なことでないのは、メブキにもぼんやりとわかった。
陸地がなければ、水のなかで息をできない生きものはずぶずぶと溺れ死ぬ。居場所なくして、ひとは生きられない。ミヤコワスレをみずからの陸地に招き入れたが最後、彼を生かした責任はどこまでもつきまとう。
それでも、メブキはめいっぱい手を伸ばした。
それはあるいは、つぐないだったかもしれない。自分勝手を通したことへの。けれどそれ以上に、彼女は直感していた。ことばを交わしたのは今日が最初でも、それよりずっと以前から。顔を合わせた秋のある日から。
自分と彼とは似たものどうし。
居場所をつくりあうことができる。ともに息をすることが、できると。
「きみは、自分が魔性の子かどうかわからないと言ったけれど、それなら好きなように決めたらいい」
一度染みついたものはそうやすやすと消えはしないだろう。けれど、この場所に来て思い知らされたことがある。逃げたところで、どこまでも現実はつきまとう。だとしたら。
「声を、上げようよ。わたしも、そうする」
いよいよふたつの島は、別離の道をたどっている。少女は赤毛をふりみだし、琥珀の目をひからせ、肩が痛むほどに手を伸ばす。できうるかぎりの力強さで、名をさけんだ。
青白い雷がひかり、メブキの目を焼いた。轟音に平衡感覚が狂い、せつな、右も左もわからなくなる。
湿ってすべらかな手が、メブキの手をつかんだ。かと思うと、からだに重みを感じる。のりあげてくる、存在があった。
次にまぶたをひらいたとき、メブキの目に入ったのは、淡い金の髪がうずまくつむじだった。ミヤコワスレは、ほのかに笑った。
「きみ、母さん、みたい」
ミヤコワスレのなかの赤茶けた髪の記憶は、メブキの赤毛と重なった。
「母さんって、なによ」
メブキはいささかふきげんそうに言い、ミヤコワスレを助け起こした。
けれども、風は強く波は高く、嵐は激しさを増す一方で、すこしもおさまる気配を見せない。このままでは、ふたりの居る島がしずむのも時間の問題だろう。メブキは歯がみした。
焦る少女とうらはらに、少年は金髪をはためかせ、笑みを不敵なものに変えた。
「だいじょうぶだよ」
なにがだいじょうぶなものか。メブキが言うより早く、ミヤコワスレは波間に手をつっこんだ。
波濤のなかにも、はっきり見えた。彼の冷えきった両の手に、淡いひかりがうずまくのが。蛍のような燐光が無数に、水のなかに泳いでいくのを。
ミヤコワスレが振り返り、メブキを手まねく。島の際には絶え間なく波がぶつかり、足を踏みはずせば水に押し流されて戻れないことは知れた。メブキがまごついていると、ミヤコワスレはいささか強引にその手を引いた。少年には、確信があった。
また、地響きがする。今度の音は、さきほど大地を割ったそれとはまたちがっていた。すぐそこのみなもがだんだんと色を濃くした、かと思うと暗い影が水底からのぼってくる。
けたたましい水音をたてて、まず現れたのは鈍くひかるうろこの並び。てらてらとしたそれはくまなく、その生きものの全身をおおっている。真円をえがくひとみ。流れる背びれ、尾ひれ。
あたまを出したのは、鈍色をしたそれは大きな一匹の魚だった。
メブキはその魚に見覚えがあった。あたりまえだ。それは、いつもあの額ぶちの天辺からふたりを見下ろしていた彼だったのだから。
なんの迷いもなく、ミヤコワスレはその魚の背につかまった。自然、彼に手をつかまれていたメブキも、おなじようにすることになる。
あとはもう、無我夢中。ふたりにできたのは荒波にさらわれないよう魚にしがみつくことばかり。目をきつく閉じ口をかたく結んだけれど、すぐにそうしていることすらわからなくなった。死は水となってそこここに満ちていた。けれど歯を食いしばり、ふたりは念じた。帰りたい、と。
ひんやりした床がほほにふれている。硝子越しに、突き抜けるような青。飴色のがくぶちは、すぐそこにある。幾度かまたたいて、ミヤコワスレとメブキは、もう一度目が覚めたことを知った。
起き上がると、メブキの豊かな髪からは滝のように水が滴った。ミヤコワスレにしても、からだから服からずぶ濡れなのはおなじだった。ただ、そんなことはいまのふたりには、どうだってよかった。目が合うと、どちらともなくおたがいのからだにしがみついた。くちびるを割って、ふふふ、と音が漏れだしてくる。
石の廊下に、笑い声がさざめいた。反響して、反響する。
――はじめよう。せえの、で息を、はじめよう。
その後すぐに、目を血走らせた館長が駆け込んできた。私語とあたりを水浸しにしたことを、少年と少女はこっぴどく叱られた。だけどそれは、またべつの話。
〈了〉