01.夏休暇はじまる

 ながながとバスに揺られるうち、いつしか眠っていたようだった。終点を告げるアナウンスと大きな揺れで目を覚ますと、車内は薄暗い。枠の錆びかけた窓越しに見れば、いま、空はむらさき、ただ、熟れすぎた果物のような太陽のまわりだけ橙がたなびいている。夏の日は長いといっても、終業式が終わってから出てきたんじゃちょっとばかり遅かったらしい。
 覇気のない運転手にうながされ、バスを降りる。段差の急な降り口は、足を置くとぎしぎし音をたてた。そうしてバスを降りればむっと湿った草いきれがまとわりついて、車内にはあれでも空調がきいていたのだと知る。目的地まではまだ少し歩かなくてはならない。そう思うと、早くも来たことを後悔しそうになった。けれどバスは薄情にその場で折り返し、来た道を戻ってゆく。かすかな排気のにおいもエンジン音も、ふだんならうっとうしいのにいまは遠ざかるのが惜しかった。
 目の前には荒廃した畑が広がっており、あぜ道が頼りなく残っている。それをたどってゆけば、小高い丘に行き当たる。丘の上には灰色をした町があり、暗い夕暮れに沈んでいた。
 あれが、《小さな町》。わたしの故郷。
 ゆううつな試験期間を越え、今日、夏休みがはじまった。ずっと、すると決めていたことがあった。夏休みにあの、――十年前に廃墟と化してしまったわたしの故郷を、訪れること。そこでさがしものをすること。
 意を決して、わたしは一歩を踏み出した。ざり、と砂が鳴いた。

 《小さな町》が廃墟になったとき、わたしはまだ五歳だった。だから実のところ、この町のことはあまり覚えていない。自分の家の周りと、よく遊んだ公園、それからいくつかの建物。記憶は断片的だ。
 それでも、あのころといまの景色が似ても似つかないことは、わかった。
 なにせこの町にはもう、だれひとり住んではいない。季節柄うるさく鳴いているべき蝉たちすらなりをひそめて、あたりはひっそりとしている。あたりまえのことなのに、わたしは少し呆然としている。
 崩れ落ちた塀は、かすかにその道筋を残すだけ。がれきと化して、石畳を埋める。運動靴でも歩きにくいほどだ。ここがどんな通りだったのか想像がつかない。かろうじて残っている建物の外壁はのっぺりとした灰色の顔でわたしを見返すばかりだ。“生前”は色とりどりの住宅街であったり、人で溢れる商店街であったりしたのだろう。――見る影もない。
 しばらく道なき道を進んでみる。崩落の具合は、場所場所で異なるようだった。大通りのようなところに出ると、いくぶんかつての町並みがうかがえた。おそらく、このあたりが中心街だ。れんが造りの建物が連なり、細い路地も残っている。道に投げ出された看板に、理髪店の名が読み取れた。けれどあくまで辛くも、だ。ひどい状況に、ため息が漏れる。
 そのとき。目の前を、かすかな影がよぎった。目で追うと、路地に飛び込んでいったのがわかった。
 追いかけてのぞいてみれば、そこにいるのは思ったとおり一匹の犬だった。ふさふさとした茶色の毛で、両手で抱きこめるほどの大きさだ。黒いひとみとぺろりと出た桃色の舌が愛くるしい。こんな環境なのに、毛並みはふしぎと整っている。そして、その犬は壁の影にほとんど溶けこむようだった。
 近づいても敵意を示さない。どころか、尻尾を振ってさえみせる。わたしはためらいながらも近くにしゃがみこみ、犬と視線を合わせた。手まねきする。犬はすなおに、わたしの手もとまで歩いてきた。
 そして短い鼻先が、わたしの手をかぎ、つつこうとする。けれどそれはかなわなかった。
 犬の鼻先の濡れた感触は、差し出した手にちっとも伝わってこなかった。かすかな、ごくかすかな風が感じられたけれどそれだけだ。犬の鼻は、わたしの手をすり抜けている。
 それでも犬はかまわずに、手をふんふんとかぎつづけた。わたしはしばらく眺めて、手を引く。すると名残惜しげに見上げられたので、顔のまわりのふさふさした毛を、のどを、なでるようにした。さわった実感がともなわない行為だったけれど、犬は心なしかうれしそうにしている。従順な態度を見ていると、自然、よし、よし、と声が漏れる。
「おりこう」
 ひとしきりその犬をかまって、わたしは立ちあがる。
 わたしがさがしているのはこういう奇妙な犬、ゆうれい犬だけれど、この犬ではない。
 肩にかけたかばんの蓋をひらく。中から飴色の表紙の手帳を出してきて、挟みこんである古ぼけた写真を手にとった。そこには幼いわたしと、一匹の大型犬がうつっている。写真はずいぶん色あせているけれど、ひとたび目を閉じればありありとその姿を思い描ける。跳ねぎみの金茶の毛。たれ耳、いつも笑っているようなどこか締まりのない顔。手足は大きい。
「……モモさん」
 わたしはこの町に、いまはもう死んでしまった飼い犬をさがしに来た。
 七月三十一日。明日から休暇がはじまる、言ってみれば夏休暇零日め。

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2014.02.22
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