01

いい響きだ

 収穫を間近に控えたスイカたちは、まるまる膨れて、畑の草の間に転がっているのだった―さながら生首のように。陽光に温められて、草と土が濃くにおいたつ。むせ返る生の主張にあぶられながら、ぼくはうらなりの果実を容赦なく間引いた。みずみずしい蔓のむしられる断末魔。草の汁が指さきを濡らした。
 ひたいを湿す汗が、しずくになって垂れ落ちる。土に汚れた手でぬぐうのをためらううちに、目に入っていたく染みた。顔を上げ、首にかけたタオルを目にあてる。ついでに頭の麦わら帽子を背に回すと、なまぬるいはずの夕風が髪にまとわる熱をさらって心地いい。
 うつむいたままでいたせいで凝り固まった首の筋を伸ばそうと、横にひねった。と、畑のそばの道の人影が目に入る。黒く長い影を引き連れて、少年が歩いていた。あれ。なんであいつがいまここに。
 まっすぐに前を見据えるのは、凛々しくもどこか物憂げなうつくしい顔。輪郭を縁取る黒髪は、強い西日を受けてなお茶色く透けることがない深淵の色をしている。よく焼けた肌は夕日のなかで、赤銅にかがやいて見えた。小柄だが、薄い白シャツの内側には思いのほか厚みのある肉体が隠れている。それは日ごろの鍛錬の賜物だった。
 麦原千波(むぎはらちなみ)。水泳バカの練習バカ、ストイックもストイックな水泳部員だ。いまは活動時間だろうにプールサイドにいないとは。半口開けて見ていると、彼はまっすぐに寮棟に向かって歩いていく。水着を部屋に忘れたとか? いや、あいつ部活がある日は制服の下にはなっから水着を履いている。変態じみているがそれだけ熱心なのだ、手抜かりを起こすなんてありえないし万一起こしたのだとしても。
 なにかがあったのだ。
 ぼくは作業を中断して立ち上がり、小走りに畑を出た。校舎の角を曲がると、西日とともに、水泳部の掛け声、水音、かすかな塩素のにおいがいっさんに向かってくる。一段高くなったプールサイドに、幾人もの部員のすがたがあった。顔見知りを見つけて、金網越しに声をかける。
「おーい、木梨」
「ん……あれ、弦本(つるもと)じゃん。どうかした?」
 同じクラスの木梨がこちらを見下ろしてくる。
「麦原、今日は休みか」
「ムギ? ああ、しばらく休部」
「休部ぅ? あいつが?」
 鬼の霍乱だ。ぼくは目を剥いた。すると木梨は驚くのも無理はないという顔で頷いて、ことばを継ぐ。
「あいつ、身ごもったらしい」
 西日がひりひりと、肌を焼く。強すぎる盛夏の光のなかで、プールサイドの風景は翳って見えた。少年たちの声。鍛えられた、けれどまだ未成熟な肉体が競技用プールの水のなかで躍動するのが、妙にスローに視界のはしにうつっている。
 塩素の独特のにおいを吸い、吐き出した。
「……麦原、男だよな」
「ここには男しかいねえだろ」
 それはそうなんだけど。ここは中高一貫の男子校だ、それも寮つき。当事者としてはむさくるしいことこのうえないが、質実剛健、清廉潔白の少年たちの園であるというのが創始者の言いぶんである。部活動がさかんでそれなりの成果を上げており、遠方からの入学志願者も多いので寮が必要なのだ。目の前で活動している水泳部からも、何人かの部員が全国大会に出場している。
 で、いまはそんなことはどうでもよくて。
「いったいだれの子だよ」
 木梨は詩人じゃない。どっちかっていうと脳まで筋肉でできている人種だ。だから身ごもったっていうのは比喩でもなんでもない文字通りの話……の、はずだ。麦原は小柄だし容姿も可憐なほうだが、精鋭ぞろいの水泳部の一員であり、暑さにくらくらしながらスイカの世話ばかりしているぼくなんかよりよほど男らしい。漢だ。それが孕むとはまったく世も末、いったい相手はだれだという話になってくる。
 かたずを飲んで答えを待つ。木梨はあっけらかんと言い、ぼくは耳を疑った。聞き返すと木梨は律儀に繰り返す。
「人魚の骨格標本。理科室の。おまえ萩森先生と暮らしてんだから、よく知ってんだろ」
「あれほんものだったのか」
 あまりにもうさんくさいんで、てっきり萩森がつかまされた偽物だとばかり。
 さらに話を聞こうと口を開いた、そのとき。怒号が飛んだ。
「木梨! なにサボってる!」
 泣く子も黙る顧問の声である。木梨はびくりと肩を震わせた。
「やべっ、悪いな弦本、戻らないと」
「いや、こっちこそ邪魔してごめんな」
 ひらひらと手を振って、木梨の背を見送る。来た道を戻りながら、ぼくは暑さのせいでなく、かあっと熱が喉元にせり上がってくるのを感じていた。一足歩くごとに、熱が高まっていく。いや、意味はわからない、麦原が人魚の標本の子を身ごもったって、ご冗談でしょう。だけど麦原がご冗談で部活を休むか? 答えは否だ。
 目の前には、スイカ畑。足元に転げたスイカのくろぐろとした模様はいつもなら消えない痣のように感じられる。だけどいま、そんなもの目にも入らない。世界はただ、目にしみるようなだいだい色だった。昂揚の色に染められて空気が歓喜と熱情にさざめく。ぼくはそれを噛み締めて立つ。
 あいつとぼく。麦原千波と、弦本清。ふたりっきりだと思っていた。のに、ふたりっきりじゃ、なくなるのか。たとえそれがなにか得体の知れない生きものだったとしても、あいつの体を借りている以上そいつはぼくの甥だか姪になるわけだ。
 甥、姪。
 いい響きだ。
 あまりにぼくに似ているスイカたちなんかよりよっぽど、なぐさめになった。



 麦原千波とぼく、弦本清(つるもとしん)は半分だけ血を分けたきょうだいである。
 このことをたぶん麦原は知らない。直接聞けたことはないのだけれど、彼はとことんぼくに無関心だし、ごくたまに交わす会話に屈託がない。だからきっと知らない。直感だがまあ当たっているだろう。
 ぼくは四年前に他界した母にことの次第を聞いた。父はたいそう女癖が悪く、そして旅に生きるひとであったという。ごく短い蜜月のあいだに母はぼくを得、そして父は新たな土地に発った。幼心に疑問に思って聞いた。止めなかったのか、と。母は答えた。ひとところに留まれば、死んでしまうひとだったから。
 とはいえ母と父がそれ以降二度と会わなかったか、といえばそうでもない。聞けばほんの一度だけ帰ってきたことがあるそうだ。ぼくが一歳だか二歳だかのとき。その逢瀬すらほんの二日三日のことで、ふらりと消えたそのあとは今度こそ、今生の別れになってしまったわけだけれど。
 父はいちまいの写真を持っていた。うら若い女が赤子を抱いている写真。母が問い詰めると白状した。写真の女もまた、母と同じ立場の人間だった。すなわち根無し草の父とのあいだに子を設け、次の土地に旅立つ彼を見送った女。母と違ったのは、せめて、と写真を託したその一点。
 かように、父はまあ、クズである。とはいえ母が父を愛していたことを、ぼくはともに過ごした十年で知っている。理解はできないけれどそんなものなのかもしれない。
 ともかくその写真の赤ん坊が麦原千波なわけだ。名前は聞かされていたから、同じクラスになってがく然とした。そうある名前でもないし、入学式に来ていた母親が写真のそのひとだった。父親がいないことも噂で知った。あいつはぼくの弟なのだ。
 同じ男の遺伝子を持って生まれたはずが、麦原とぼくは、ぜんぜん似ていない。きっとお互いに母親に似たのだろう。
 けれどたったひとつ、ふたりともが父から受け継いだものがあった。ぼくはそれを水泳の授業の時間に見つけた。水着いちまいの姿になった彼の右腰に、吸い寄せられるように視線がいった。三角形を描くように並んだ、みっつのほくろ。同じものがぼくにもあった。いっしょに風呂に入ったときなんかに、母は言っていた。お父さんにもおなじものがあった、と。
 皮膚下のメラニン色素の密集、ただ、それだけだった。ぼくと麦原をつなぐものは。
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