02

人魚の標本

 スイカの世話は園芸委員会の仕事だ。部活動が忙しい場合免除されてしまうので、いまのところぼくひとりでやっている。一時期は顧問の教諭がいたのだけれど、ご老体であるため炎天下に耐えかね、屋内に引っこんで久しい。仕事を終えたことを職員室の教諭に報告してから、ぼくは理科室へ向かった。
 理科室のある校舎は、ふだんぼくたちが使っている教室のある棟とは別でなじみがない。かつ、いつもひんやりとして薄暗く、心なしか湿っぽいにおいまでするようだ。未開の樹海に分けいるような心持ちで引き戸を開く。ぼんやりと薬臭い空気が鼻腔を満たした。
 入ってすぐ左手に準備室の入口がある。手をかけると、鍵がかかっていて開かない。ならば、とぼくは扉のとなりに設えられた本棚の前でしゃがみこむ。一番下、百科事典の第三巻。開くと、銀色の薄っぺらい鍵が挟まっている。理科室の主とはもう四年の付き合いになるので、隠し場所はよく知っていた。まめに持ち歩けばいいものを、横着してこんなところにしまっているのだ。
 そうして入りこんだ準備室のいちばんめだつところに、人魚の骨格標本はある。扉の外からも見える位置だから、たいていの生徒はその存在を知っているだろう。机の上に鎮座したガラスケースのむこうに、薄く光のもやをまとって、ゆうれいのようにその姿はある。小柄な少女ほどの大きさがあり、人間の上半身からなめらかに魚の下半身が続いている。
「麦原千波があんたの子どもを身ごもったって、ほんと?」
 ささやくように問うてみる。返事はなかった。空の眼窩に光が宿ることも、歯がかたかたと音を鳴らすこともない。ほこりっぽい静謐が、準備室を満たしている。
 麦原の懐胎については、一から十までわからないことだらけだった。さりとてぼくと彼のふだんの関係を思えば、ずけずけと聞くこともできない。それならもう片方の当事者に聞けばいい、と思って来たのだけれど。
 ふう、と息をついて、机に体をもたせかけた。そのとき。
「なにしてる」
 準備室の戸口に、白衣をまとった背の高い人影があった。いまいち収まりの悪い髪は半年前から散髪に行っていないせいだとぼくは知っている。細面で彫りの深い男前ではあるのだが、不精と目つきの悪さがたたっていつでも不機嫌に見えた。彼こそがこの学校の理科教師、萩森である。ついでに言えば、親類縁者のないぼくを母の遺言で引き取った人物、つまりは保護者でもある。
「標本を見に来たんだよ」
「ふだんはまったく興味を示さないくせに。いったいなにを企んでる」
 なにも企んじゃいない。だけど、麦原のことを話すのは得策ではないだろう。
「これ、ほんものだったんだね」
 言うと、あたりまえだというように鼻を鳴らし、萩森はガラスケースに目をやった。不機嫌そうな顔はあいかわらずだが、強い光がその目によぎるのをぼくは見逃さなかった。
 部屋の片隅に目をやれば、うずたかく積み上がった本の塚。タイトルを目で追う。『人魚の民俗誌』『水辺の神話』『人魚学事始』……。
 鍵を挟んでいる百科事典の頁は、じつはいつも決まっている。【人魚】の頁だ。初歩とはいえ科学も物理も教えるくせに、こいつはそういうロマンチストなのだ。人魚の標本は宝物、だからその子を生徒が身ごもったなどと聞いてどう反応するか読めない。
 だからぼくが代わりに口に出したのは、まったく別のことばだった。
「……萩森、今日の飯なにがいい」
「遅くなる。一人で食ってろ、俺のぶんはいい」
 彼はこちらに視線をくれることさえなかった。ぼくを見ず、ただ、人魚を見ていた。了解、と返しながら冷え冷えと想像する。家に―学校からほど近いアパートに帰る。いまから買い物して帰ったら日は暮れているはずで、部屋は青い闇のなかに沈んでいる。そのくせ、日中の熱を溜めこんで辟易するような暑さだろう。食卓に野菜のつまったスーパーの袋を放り出し、まずは窓を開けて、しばらくクーラーをかける。空気を入れかえてしばらく涼んだら、ひとりぶんの食事の用意をはじめるのだ。
 ため息が出た。
 萩森は母の旧い友人だそうで、血縁はない。母の親類の存在は聞いたことがなかった。父のゆくえはようとして知れず、ひょっとしたら死んでいるかもしれない。麦原だけだ。ぼくと血がつながった人間はこの世に麦原しかいない。だからほかならぬ彼が身ごもったという事実は、うさんくさいけれど、ぼくにはうれしいのだ。



 とはいえ、ぼくと麦原は友だちではない。同じクラスで顔見知りだし必要があればことばを交わす。だけどぼくは麦原の好きな食べものすら知らない。だから彼の身に起きたことがどれだけぼくに喜ばしくとも、いままでどおり、なんくれとなく彼を気にして、陰から見つめて過ごすだけだ。笑いたきゃ笑え、とんだストーカー気質だって自分でも思う。
 ……と、そう、思っていたのだけれど。
 あくる日の放課後、いつもどおりに体操服に着替え、首にタオルを巻き、つばの広い麦わら帽子をかぶって畑に向かうと、ひとりの少年が立っていた。
 麦原だった。体操服を着て、軍手をして立っている。
「えっと……なんで?」
 その格好、まさか手伝いに来たのだろうか。我ながらおもしろいまでに動揺していたが、対する麦原は静かに答えた。
「休部するなら免除されていた委員会の仕事をやれ、と言われた」
 ……園芸委員だったのか、こいつ。長いことひとりっきりでやっていたから、同じクラスの委員がだれかも知らなかった。
「ああ、水泳部休んでるんだっけ。木梨から聞いたよ」
 だっけ、って、白々しい。さもいま思い出しました、みたいな自分の口ぶりが笑える。
 笑えねえわ。ふたりでスイカの世話って、なにを喋ればいいのやら。
 とはいえ委員の仕事で来たというなら追い返すわけにもいかない。まあどうぞ、と畑に招き入れ、気づく。盛夏だ。空は高く晴れ、強い日差しが肌を刺す。
 かぶっていた麦わら帽子のあごひもを緩める。右手でとって、少し低いところにある麦原の頭にかぶせた。麦原は帽子のつばを押さえ、訝しげな顔で見上げてくる。
「暑いから」
 やっとそれだけ言えた。
「おれが借りてしまったら、そっちが暑いんじゃ」
「いいんだよ慣れてるから」
 どんな理屈だ。でも引けなかった。身重の体に無理させるわけには、なんて思いがぐるぐる回っている。麦原はしばらく逡巡していたけれど、ぼくが黙っているのでけっきょくは帽子を借りることにしたらしい。帽子の位置を調整し、あごの位置でひもを締める。帽子をかぶった彼を見て、ぼくは少し安堵した。
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