03

新たな園芸委員

「……で?」
「え?」
「なにから始めるんだ」
「あ、うん、まず水やり」
 せっつかれて、麦原を畑の脇の蛇口のところに案内する。水はあんまりいらないからさっとでいいよ、と説明したきりものを言えなくなった。ふだんのぼくならべらべら喋っていただろう。スイカはもともと砂漠の植物だから水やりはそれほど必要ないこと。だけど肥料をやったばかりだから、少し水をやったほうがいいと顧問の先生に言われたこと。
 麦原も自分から雑談をはじめるタイプではないし、ぼくたちはただ作業をこなすだけのふたりになった。水やりのあとは畑を回って、なりすぎた実を間引いたり、ふくらんだ実の向きを変えたりする。
 それも終わったから、並んで雑草をとる。緊張しどおしのせいか暑さのせいか、なんだか頭がぼんやりした。機械的に草をむしる。
 ぶちっ。ぶち。
「弦本」
 突然呼ばれて体が跳ねる。あからさまな反応をしたぼくの肩に目をとめ、麦原は少し渋い顔をしていた。
「おまえ、おれのこと苦手なの」
「に、苦手? なんでまた」
「だって弦本って、いつもへらへらしててお喋りなのに。……ずっと黙ってるし、なんかびくついてるし、いまもこっち見てないし」
 麦原よ、それはあんまり失礼な物言いじゃないか。けれど当の本人の顔には邪気がない。純粋な感想らしい。
 たしかにいままでの反応を冷静に鑑みれば、麦原がそう思うのも無理はないのだろう。ぼくはそっと首をめぐらせ、麦原を見た。麦わら帽子のひろいつばの影に、水際立ってうつくしい顔がある。帽子の網目のあいだから、細かい光が顔に模様を作っている。視線はこわいほどまっすぐ、こちらに向かっていた。吸い込まれそうな深淵の色。
「……麦原とあんまり話したことないから緊張してただけだよ」
 その実、話したいことなら山ほどあった。……でも言えるわけないじゃないか。ぼくはおまえの兄です、なんて、言ってしまったらもうなかったことにはできない。雨降って地固まるならいいけど、世のなかには固まらない土だってあるだろう。
 たぶんぼくは、揺らぐ水の前に立ちつくしている。潮目を読めず、ひとたび踏み込めばどこに流されるかわからないから、足を地に縫いとめているしかないのだ。
 熱が皮膚の裡にこもっているようで鬱陶しい。かあ、と頭に血がのぼってきて視界が眩む。ぼくは、麦原にそれ以上なにを言ったらいいのかわからなかった。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「弦本」
 呼ばれたのに気がつかないふりをして立ち上がる。そのとき、体操ズボンのポケットの中身が震え、ぴりり、と電子音がした。
 携帯電話を取り出して確認すると、萩森からメールが届いていた。今夜も遅くなる。夕食はひとりで。ディスプレイに浮かぶ無機質な文字がちらついて見えた。
 ……また、あの部屋に帰るのか。青い闇と、異様な熱気に淀む狭い一室。まずは窓を開けて、しばらくクーラーをかける。空気を入れかえてしばらく涼んだら、ひとりぶんの食事の用意を―、
 視界がぶわ、とぼやけた。目に映る土の色、葉の色、光の色、ありとあらゆる色が明滅する七色のネオンに変わってぼくを包囲する。たちまち頭が重たくなって、ぐらりと体がかしいだ。
「弦本!」
 今度は返事をしなかったんじゃない。できなかった。あつかった。体が。思考が。



 白い天井が見える。体を覆う白いシーツのつめたさが心地いい。素肌にこすれてさらさらと、衣擦れの音がする。
「……ごめん、麦原」
「慣れてるってなんだよ。おまえが倒れてちゃ世話ないだろ」
「ごめん」
 目がくらんだかと思うと全身が熱くなり、ひどい頭痛と筋肉のこわばりで動けなくなった。もののみごとな熱中症だ。
 麦原の対応は、迅速だった。様子のおかしいぼくをおぶって保健室まで運び、水分を摂らせ、服を脱がせて体を冷やした。首筋に氷のうを押し当ててくる手つきはかいがいしく、胸が痛む。麦原を心配して帽子を貸して、けっきょく心配かけた。情けないことこのうえない。
「迷惑かけてごめん。でももう大丈夫だから、帰っていいよ」
「あほか。送っていくよ。おれが帽子借りてこうなったんだし」
 顔をしかめてそう言うけれど、窓の外はもう大分暗い。これ以上手間取らせるわけにはいかなかった。いいよいいよ大丈夫、家近いし、と言い募ると、ぴしゃりと檄が飛んだ。
「弦本!」
「は、はいっ」
「おれのこと苦手じゃないんだろ。だったらそうやって他人行儀にするなよ」
 身を起こしたぼくを、麦原が見つめている。狭いベッドの上で後ずさろうとしたらシーツの上についた手がすべって、背中から転がる。ためらわず、麦原はぼくに手をさしのべた。身を起こすために握り返した手は意外にもぼくより大きく、そしてたしかな体温を持っていた。
 ……踏み込んでもいいのだろうか。流れの読めない水のなかに。
 どうしたいかと聞かれたら答えは決まっている。そりゃもちろん近づきたいさ。半血といえどたったひとりの弟だ。たとえば父のことを話したい。麦原もまた反感を抱いているのだったらさんざんこき下ろして、まったくどうしようもないなと笑い合いたい。お互いの似ているところを探したい、似ていないところを教え合いたい。……いや、そんなことじゃなくたっていいんだ。そんなこととはぜんぜん関係のない、好きな食べものはなんだとか、初恋はいつだったとか、そんな他愛のないことだっていい。
 だったら、と。脳裏で悪魔がささやく。だったら踏み込めばいい。流れのゆるい浅瀬なら、流されることはないだろう。
 いいのだろうか。思案するぼくの横で、麦原が立ち上がる。
「帰るんだろ、支度しろよ」
 布団の上に放り投げられたのはぼくの制服だった。麦原も自分の荷物を携えていて、あ、と思ったときには体操服を脱ぎ捨てている。よく日に焼けた、夏の日差しと親しい肉体があらわになった。保健室の白い光のなかで、しなやかな筋肉が影を張りつかせている。ぼくの背ばかり高くてひょろひょろした体とは大違いだった。
 彼はためらわずズボンも脱ぎ捨てる。そうして露出した腹に、ぼくは釘付けになった。
 下着のゴムのほんの上、ひきしまった下腹に赤い一本の線がはしっている。みみず腫れのような痛々しさがあるが、隆起はしておらず、あざに近い。
「麦原。腹の、それ」
「ああ、これ」
 麦原の体格のわりに大きなてのひらが、赤い線をなぞる。
「木梨から話聞いたなら、知ってるか」
 その線が、身ごもったあかしだというのだろうか。下腹をじっと見つめるが、ふくらんだ様子などはなかった。と、そのとき、視界の外で吹き出すような音がした。なにごとかと視線をそちらにやり、ぼくはことばを失う。
 あまりにまじまじ見ているものだからおかしかったのだろうか。麦原が笑っていたのだ。
 それはぼくに向けられた、はじめての笑顔だった。
 生唾を呑む。こわばる口を開いて、ついにぼくは浅瀬に一歩、踏み込んだ。
「詳しく聞いても……いい?」
 あっさり、麦原はうなずいた。
「変な勘ぐりされるのも嫌だからな。……送っていく。服着ろよ」
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