09

夜にとけゆく煙

 両側に草木の生い茂る細い道をゆく。反り返った花弁の白い花がぽつぽつと咲いていて、そこだけぼんやり明るく見えた。あれはたしか浜木綿(はまゆう)だったか。
 あるときざっと視界が開けて、夜にぼやけた水平線が見える。たよりない砂地を踏んで少し歩くと、ほのじろい紫煙がくゆらせる人があった。
 凪紗さんだ。あぐらをかいて座り、煙草を吸っている。ぼくを見つけて手招きするので、うながされるままとなりに座る。
 煙草の先にともったあかい火が、ゆるやかに明滅する。暗い海辺はモノトーンで描いたようで、火の色はことにあざやかに目にうつった。宙にあらわれる不定形の曲線は、風もないのにやわらかく空気に溶けて、消えてゆく。凪紗さんはしばらく、物言わぬまま煙草をふかしていた。
 それは今日一日でいっとう静かな凪紗さんの姿だった。ぼくもなんとなく口を閉ざしたままで、紫煙を追うばかりになる。
 どれくらいのあいだそうしていただろうか。沈黙を破ったのは凪紗さんだった。
「弦本くんさ。腰にほくろあんのね」
 え。ぼくは消えゆく紫煙を追うのをやめ、凪紗さんを見る。
「ごめんね。さっきバスタオル持ってったとき、見えちゃって」
 凪紗さんもまた、ぼくのほうを向いていた。彼女ぼくの頭のてっぺんからつまさきまでを、視線で撫ぜた。ひどく落ち着かない気分になる。受け流すには、その目は千波と似過ぎていたから。
 彼女はなにかに気づいたのだろうか。
 それともなにかを、知っているのだろうか。
 不規則なリズムの波の音がやたらと耳について、知らずその回数を数えている。いち、に。数が増えるほどに、鼓動が早くなった。
 ひととおり眺め回したあとで、彼女は小首をかしげる。
「それ以外はあんまり、似てないかな」
 わななく唇で問う。
「……だれと、ですか」
「千波と」
 ひときわ大きな波が、浜に打ち寄せた。
 薄い色の口唇が動くのが、みょうにゆっくりに見える。弦本くんは、お母さん似なのかな。ああ、思いっきり母似ですね、だなんて軽く返すことはできなかった。
「知ってたんですね」
「ああ、やっぱりそうだなんだ」
「……知らなかったんですか。もしかしてカマかけ?」
「ああ、うん。女の勘にもとづくカマかけ……きみのお父さん、どうしようもない自由人?」
 ですね。クズとも言うと思います。返すと凪紗さんはおかしそうに笑った。はじけるような笑声にぼくは安堵する。疎まれてはいないみたいだ。
「女の勘っていうのは、どういう」
「あなたあんまり千波にご執心だからなにかあるのかなって。そこであのほくろ見つけて。でもびっくりだな、いざこうして当人を目の前にすると」
 予想はしてたのよ、と凪紗さんは言う。あんな人だから、ほかにもどこかに子どもはいるんだろうなって思ってた。
 だがぼくはそれどころじゃない。千波にご執心? そんなにダダ漏れだったのだろうか。
 妙な顔をしていたのだろう。凪紗さんがぷっと噴き出す。なんで笑うんですか、とふくれるうちに、鼓動はいつしか収まっていた。
 凪紗さんはジーンズのポケットから携帯灰皿を取り出すと、煙草の火を消した。たちこめていた煙臭さは、しだいに潮のにおいにかき消されていく。
「千波は知ってるんですか。自分に兄がいるって」
「ちゃんと言ったことはないかなあ。少なくとも弦本くんがそうだとは、知らないと思うよ」
 やっぱりそうか。千波のぼくへの屈託のなさは、やはり知らないがためだったのだ。自分の直感の正しさを確認する。と、気づいた。凪紗さんが笑みを収め、ぼくをじっと見ている。深い湖のような、静かな目で。
「言わないの? 自分がお兄さんだって」
 一瞬、ことばにつまった。だけど答えなんて決まっている。
「言えないですよ。打ちあけたらもう元には戻れないし。もしそれでつながりが切れてしまったら……ぼくは完全にひとりぼっちになってしまう」
 なにせ、ぼくにはもう千波しかいないのだ。
 水は高いところから低いところにしか流れない。一度流れ落ちた水がもとの場所に戻ることはない。臆病になるしかなかった。
「言いたくは、ない?」
 言いたいに決まってる。
 強く目を閉じると、まなうらの闇に星が光る。三角形をえがく、点と点と点。あいつの腰にはりついて、ぼくとを結ぶ黒い刻印。
 気遣わしげに、凪紗さんは教えてくれる。父親のことを親子で話したことは、あまりないのだそうだ。だから彼が父親のことを憎んでいるのか、それともなんとも思っていないのかは母親といえどわからない。
 参考にならなくてごめんね、と謝られて、首を振った。いたわるように肩を抱かれる。今日会ったばかりのひとなのに、その手のひらはふしぎと安心できるぬくもりを持っていた。
 そしてぼくらは、座って海を眺める。そろそろ帰ろうか、と凪紗さんが切り出すまで。
 家に入る前、彼女は思い出したように告げた。
「話すにせよ、話さないにせよ……このこと、逃げ道には使っちゃダメね」
 それも女の勘、だろうか。なにもかもを見透かされているみたいで、なんだか恐ろしかった。
 逃げ道。
 たしかにぼくは、ここへ逃げてきたのだった。あのひどくさびしいアパートの一室から。
 凪紗さんの言うとおりだということはわかっていた。ぼくは千波の兄でありたい。だけど萩森を捨ててそれを手に入れたところで、禍根は残るだけだ。
 萩森はなにを思って、寮に入ることを提案したのだろう。
 ぼくにはあいつの心がわからない、だってなにも話してくれないから。わからないままことばを交わしてもすれ違うばかりで、だからぼくから話すのも怖くなる。どんどんひとりぼっちになる。あの暗いアパートの一室で。
「清」
 ふいに頭上から呼び声が降ってくる。見上げると、二階のベランダに千波が立っていた。いとこたちは無事に風呂へ入れ終えたのだろうか。疲れた様子もなく、柵に頬杖をついている。
「なにしてんの」
「海。泳ぎたいなって、見てた」
「……もうすぐだろ」
「だな」
 明日には、またもとの町に戻る。ぼくは萩森に会わなくてはならないし、千波の休部期間も終わる。このままじゃいられない。ぼくは考えなくてはいけなかった。どうするのか。どうしたいのか。
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