08

点と点と点

 にぎやかな宴が終わり、ぼくは食べすぎておなかが辛かったので客間を借りて一服させてもらうことにする。千波はといえば、小学校低学年くらいのいとこたちにつかまっていた。外からはしゃぎ声が聞こえるなか昼寝をしていたらそのうちたたき起こされて、ぼくも鬼ごっこだのキャッチボールだの蝉取りだのにつきあうはめになる。遊び回るうち、あんなに高かった日はずいぶん傾いた。
 そして、汗だくで戻ってきたぼくたちに下されたのは、
「人数多いからいっしょにお風呂入っちゃって」
 なる、有無を言わさぬ家長の命令である。ぼくは千波といっしょに脱衣所に押しこまれ、うろたえた。けれど千波のほうは平然と服のすそに手をかけている。ぼくの視線を受けて、いぶかしげに首をかしげた。なんの疑問も抱いていない。そりゃあ、男同士だしおかしくはないけど。家庭用の狭い風呂にわざわざ友だちとふたりで入るっていうのがぼくにははじめてのことで。
 とはいえここで逃げ出すのも女々しい。意を決してぼくもシャツを脱ぎ捨てた、そのときだった。
「バスタオルここに置いとくよ」
 背後でがらりと引き戸が開き、凪紗さんが顔を出した。背筋が震え、二センチばかり飛び上がる。
「母さん!」
 千波が大声で咎めた。凪紗さんはいたずら好きの少女のようにごめんごめんと舌を出し、去っていく。ふたたび扉が閉じて、沈黙が流れた。ぼくと千波は上裸のまま見つめ合っていたけれど、やがて彼が口を開く。入るか。そうだね。
 風呂は狭いといえば狭いけれど、ぼくたちふたりが優にくつろげるだけの広さがあった。とはいえ並んで湯船に浸かるのもなんだ。まずはぼくが湯船に浸かり、そのあいだに千波に体を洗ってもらうことになった。
 かけ湯をしてゆっくりと体を沈めると、自然と息がもれた。酷使した体に、熱めの湯がしみわたる。
 プラスチックの椅子に腰掛け、シャワーヘッドを手にとりながら、千波が聞いてきた。
「疲れた?」
「うん……でも楽しい。おれ、親類の家に遊びに行ったこととかないから」
 親類の家じたいが存在しないからあたりまえだ。母さんが生きていたころはもっぱらふたりきりで過ごしていたし、萩森と暮らしはじめてからは、ふたりですらなくなった。萩森の家族のことは、あまり詳しくは聞かされていない。ただひとつだけたしかなのは―彼もまた、家族にはめぐまれていないということだ。両親は他界して久しい、らしい。
 そんな調子でぼくのまわりに親類縁者のたぐいは影もかたちもなかったので、こんなににぎやかなものなのか、というのがとりあえずの感慨だった。
 ぼくがこのにぎやかさを知らなかったように、麦原家のひとたちは、きっと、知らない。……だれもいない家に帰ってきてひとりで食事を食べるとき沸き起こる感情を。
「清、湯船で寝るなよ。溺れる」
 知らず目を閉じていた。大丈夫、寝てないよと応じて湯のなかで身を起こす。千波はさっさと頭を洗ってしまったようで、今度はタオルで石けんを泡立てている。
 体の裏側を洗うのに立ち上がったとき、気づいた。
「……腹」
 浴室にたちこめる白い湯気のむこうに、均整のとれた肉体がある。はだかになってしまえば、より速く泳ぐために鍛えられた筋肉のありようがはっきりと見てとれた。少年なりの細さはあるものの、胸や肩のあたりはぼくなんかよりよっぽど厚みがある。千波はひとふりの刀のようだった―体の線を崩す腹のふくらみさえないのなら。
 水泳パンツのかたちに白く浮き上がる肌のほんの上からみぞおちにかけてが、ゆるやかな弧をえがいている。いつだったか保健室で見た平らかな腹ではない。服を着てしまえばわからない程度ではあるが、たしかにふくらんでいた。赤い線だけは変わらず、なまなましく、温まって上気した肌の上をはしっている。
「さいきんになって、急にな。たぶん、もうすぐだから」
「怖くない?」
「人魚を見捨てたなんて言ったら、みんなに怒られる」
 千波はシャワーヘッドを手に取ると、湯を出した。体にまといつく白い泡を洗い落としながら、言う。
「伯父さん、得意げに言ったろ。ご先祖さまのおかげだ、って。うちの人間はみんなそうだ。血に誇りを持ってる」
 ざああ、という水音にまぎれることなく、そのことばはぼくの耳にとどいた。血に、誇り。脳髄を痺れさせる甘さをもって、響いた。
 目の前の少年の体を水がつたい落ちていく。右の腰に、みっつ、ほくろがある。星座のように三角形を描く、ほくろ。
 そこから目を離さないまま―離せないまま、ぼくは考える。
 ……もしも。あくまで、もしもの話だけれどぼくが打ち明けたとしたら。ぼくはきみの兄だと打ち明けたとしたら、千波は受け入れてくれるだろうか。ぼくはそんなつながりを手に入れることが、できるだろうか。



 千波はこのまま小学生たちを風呂に入れると言った。あの嵐のような子どもたちに体を洗わせしっかり湯船につからせるなんて、想像するだけで疲れる。とほうもない仕事だ。大家族初心者のぼくには荷が重い。そういうわけで、千波を残して一足先に風呂を出た。
 ぶらぶらと家の外に出ると、あたりはもうすっかり暗い。夏の夜らしい、どこか香ばしい夜気があたりを満たしている。遠く、海の音がした。少し歩けば砂浜に出るのだ。夕飯まで時間もあるので、行ってみることにした。
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