11

割れたスイカ

 背筋が凍り、ずしりと、手に持ったスイカの重みが増した。なにごとかを言おうとした唇はわなないて、やっと吐き出せたのは、
「そんなこと言うなよ」
 そんな力ない懇願にすぎない。
「頼むから言わないでくれ。だって……おれはどうなるんだよ」
「なんで清がそこまで言う。おまえにとっておれなんて、ここ数週間でつるみだしただけの浅い友だちだろう」
 スイカが重い。鉛のようだ。
 次の瞬間。耐えかねて、ぼくはそれを、大切だったはずのそれを、思いきり地面に叩きつけていた。
「あほ!」
 ばしょん。そんないささか間の抜けた断末魔をさいごに、いびつな球果はくだけた。なかから赤く水っぽい果肉が漏れ出し、にわかに足元から甘いにおいがする。千波はあっけにとられ、口を半開きにしていた。
「あほかおまえ。人魚とかそんなの、そんなの関係ねえよ、だって」
 話す間に、プールサイドのタイルのみぞを薄赤い水が広がっていく。割れたスイカと、なにがしかの体液にも似たそれを見ていたら、むしょうに腹が立った。ふつふつと腹の底が煮えたぎり、熱が胃の腑を、胸を喉を、頭をあぶっていく。
 あんなに動かなかった口がなめらかに動いた。制御を失って、ことばを吐き出しはじめる。だって。だって。
「だってずっと見てたんだ、中学入って、一年とき同じクラスなってからずっと、おまえは知らないかもしれないけどおれは見てた」
「清?」
「好きな食べ物も初恋がいつかも知らなかったけど知ってることはあったよ。右腰のほくろとか」
 ああ、ほら。とんでもないこと言ってるよ。水泳の授業とか体育の着替えのたんび見てたとか、変態もいいところだってのに。でも止まらない。ぎゅう、と自分の右腰をつかむ。
「おれも同じとこにほくろがあるよ。父親はとんだクズ野郎だよ、」
 視界の外で千波が息をのんだのが、わかった。もう後戻りはできない。
 ―だったらせめて、言いたいこと全部ぶちまけてやる。
「千波は、千波だよ、だっておまえは」
 ぐっと頭を上げた。呆然とした顔の千波が見えた。腐り落ちる果実のような落日に目がくらんだ一瞬、叫んだ。
「弟だから。たったひとりの、弟だから!」
 だから千波が千波以外のなにかになるわけないじゃないか。
 秘め続けてきたことばを投げつけたせいなのか、手足から力が逃げていく。ぼくは衝動のままに、その場に寝転んだ。服が湿り気とスイカの果汁で汚れるのにもかまわずに。もう、どうにでもなれ。なげやりな思いだった。
 東の空のかなたから、急速に夜が迫り来ている。風がプールの水面にさざなみをたてて去るのを見届け、目を閉じた。
 そうしてどれくらいの沈黙が、流れただろう。
「……おまえが兄貴ってなんの冗談だ。せめておれが兄のはずだ」
 思いのほか、ぼくの内側はからっぽで、静かだった。吐き出したことばがよほど大きな存在だったのだろう。あるいはなかば自棄というか、なんもかんもがどうでもよくなっていたのかもしれなかった。それ、どういう意味だよ。だなんて軽い調子で返している。問えば千波は、至極真剣な声で返す。
「清は頼りない」
「おれのほうが背は高いけど」
「関係ない。これから追い越すし」
「じゃあ言ってみ、おまえ何月生まれよ。おれ四月」
「……八月」
「だよな。知ってた」
 出会ったすぐ後、調べたからな。とんだ執念だ、と自分で自分を笑っていると、まなうらの薄ぼんやりした視界に影がさし、ほんのわずか暗さを増す。目を開けると千波がぼくを覗きこんでいた。
「ほんとうに?」
「こんな嘘、つくかよ」
 やたらめったら甘いスイカのにおいがプールの塩素のにおいと混じって、みょうに鼻にしみた。
「こんな嘘……」
 吐息がこぼれて、こめかみをなまぬるい感触がつたった。耳は濡れて、風が吹くとそこがつめたくなる。そのくせ目頭は熱くて、もう、上は大火事、下は洪水っていうか、千波の顔がにじんでにじんでしかたがない。
 そうしてはなはだ不名誉な液体を垂れ流しにしていると、燃えるように熱いてのひらがほほに触れた。ぎこちなく肌をぬぐわれて、だけど後から後から、あふれてくる。
「スイカ、だめにしちゃったな」
 まるで自分がやったみたいな言いかたするなよな。ぼくの癇癪が爆発した結果だっていうのに。まあそうなんだけど、と千波は笑う。
 そしてふいにまじめな顔になった。
「正直さ。実感が、わかない。清が兄貴だって言われても」
「……うん」
「でも励ましてくれたのは嬉しかったし、たぶん、おれはこれまで通りだと思う。先のことはわからないけど、少なくともしばらくは」
 ―充分だ。
 いっそう目頭が熱くなる。腕で顔を隠すぼくに、千波は言った。ありがとう、ちょっとやけになってたみたいだ、と。体の芯から力がわいてきて、ぼくは上体を起こした。したたるしずくが、タイルの上で薄赤い液体と混ざった。
 砕けたスイカが、無残な傷口を晒しているのが目に入る。
「あのスイカ、種なしだったのか」
 黒い種の混じらない、のっぺりとした赤がぼくを見ていた。ずっと育てていたのに千波は知らなかったらしい。学食に出すときそのほうがゴミの処分が楽だからって理由だと、顧問の先生は言っていた。それにしてもみごとに飛び散ったものだ。派手にスイカ割りでもやったみたいな状態である。
「掃除しなきゃな。道具取ってくるよ」
 千波は立ち上がると、水泳部の部室に足を向ける。後ろ姿が、夕日を遮ってくろぐろとした影になる。目が覚めるような昂揚の色をいっしんに受けるその姿に、ぼくはぼうっと見蕩れた。まだ少し、夢見心地だった。千波が変わらず友だちでいてくれることを思い、じわじわと胸が熱くなる。
 そう、夢見心地、だったのだ。……起こったことに、すぐに反応できないくらいに。
 ―崩壊の足音は聞こえず、唐突に姿を現した。
inserted by FC2 system