12

助けて

 黒い影が、落日を前にくずおれてゆく。まばたきの間にぼくが見蕩れるそのひとはひざをつき、苦しげに背を丸めていた。
 胸を高鳴らせる熱がたちまち質を変え、じっとりと嫌な汗を産むのが、わかった。
「千波!」
 叫び、駆け寄る。ひざをついているのすら、辛いのだろうか。千波は胎児のように転がり―腹を押さえた。
「いたい」
 搾り出すように吐き出されたことばに、息をのむ。ついにそのときが、来た、ってことなんだろうか。だけどそうだとして、どうすれば。ぼくになにができる?
 震える手がのびてきて、ぼくの手首を握った。目をみはって硬直していると、引き寄せられ、てのひらを腹に押し当てられる。なだらかな丘になったそこは燃えるように熱かった。布ごしに、なにか硬いものの感触がある。ぼくはためらいながらも、シャツの布をまくりあげた。
 肌が露出した瞬間、光が反射する。下腹部を横ぎっていた赤い線が、様相を変えてそこにあった。赤銅に焼けた皮膚に映える銀色のきらめき。ぼくは目を疑ったが、何度まばたきしても見えるものは変わらない。
 ファスナーだった。かたく閉じ、はしに引き手がついている。千波が荒く息をするたびに腹が上下し、引き手も揺れた。その揺れが告げているような気がした。開放せよ、と。
「開けていいの?」
 聞くと、千波は苦しげに目を閉じたままうなずいた。ぼくは口のなかに溢れる唾液をのみほし、ゆっくりとファスナーに触れる。肌は熱いのに、ファスナーの金属は冷えていた。触れた瞬間、千波の腹筋がびくつく。返ってくる反応に不安になったし、開いたさきになにがあるのかを思えば指先が強張る。だけど千波を早く楽にしてやりたくて、指を動かした。
 じ、じじ、と蝉が低く鳴くような音をさせて、ファスナーは開く。わずかずつ大きくなる隙間には、夜空のような虚空があった。臓腑がのぞかないことに安堵しながら手を進めてゆく。ファスナーの音と千波の喘ぎ声が混じり合い、プールサイドにこだまする。
 半分ほどが開いたときだった。小さな音と突っかかるような手応えを最後に、手が止まってしまう。止めたくて止めたんじゃない。―動かないのだ、ファスナーの引き手が、それ以上。
「どうして」
 むりに引こうとすれば、千波がうめいた。かといって、手を離していれば千波の呼吸は荒くなり、ただならぬ音が混じり始める。
 手を汗が濡らした。どうしよう。だれか助けを呼びに行こうか。そう思ったところで、さっき理科室へ行くまでのあいだに前を通った保健室が閉まっていたことを思い出す。夏休みの、日も暮れようかという時間帯だ。たいがいの部活は終わっており、生徒たちも引き上げているだろう。
 救急車。そんなことばが脳裏にひらめいた。けれどズボンのポケットにつっこんだ手は裏地に触れただけだった。携帯、荷物のなかだ。なんでこんなときに! 間の悪い自分に舌打ちする。
 だれか助けてくれそうなひとを探すしかない。千波を置いていくのは心配だったけれど、背に腹は変えられないと立ち上がる。待ってて、と告げて身を翻す。
 駆け出そうとした、そのとき。
 ざ、と風。プールをぐるりと取り囲むフェンスごしに、目が合った。どこか不機嫌そうな色をたたえた目と。
 視線が交錯するほんの一瞬のあいだ、その目の色以外は目に入らなかった。追って、その人物の顔、着ている服、周囲の光景が認識される。
「萩森……」
 そこに立っていたのは、萩森だった。おとといの夜別れたきりの、男だった。
 フェンスをはさんであちらとこちら、見つめ合う。萩森は仮面をかぶったような、なんの感慨も浮かばない顔でぼくを見上げている。
 いつもとなんら変わりのない格好を、していた。授業もないのに白衣で、なかは少しくたびれたシャツ。ネクタイはしていない。足元のスリッパは古びて、裏がずいぶんすり減っているから歩くたび妙な音がする。
 そんな彼を見た瞬間、胸を衝いたのは、気まずさとか憎しみとか、そんなんじゃなかった。
 奔流となって溢れ出てきたのは、まぎれもない―安堵、だった。
「助けて」
 気づけば口に出している。自分でも、わからなかった。なんでつい二日前に喧嘩別れをした男に、こんなに安心しているのか。萩森は怪訝な顔をしていたが、その位置からでもぼくの背後にいる千波が見えたのだろう。早足になって、プールの入口に回った。
 うずくまる千波のかたわらに屈み、腹のファスナーを見て、萩森は目を瞠る。
「どういうことだ」
 説明のために口を開きかけて、そのまま固まった。
 ずっと黙っていた。萩森の大切な標本が、彼のもとを逃げ出そうとしていることを。言う機会はあったのに、意図して口を閉ざしたのだ。
 もはや黙っていることはできない。うつむき、ことばを吐き出す。それは懺悔だった。
「千波が……萩森の大事にしてる標本の体を育ててたんだ」
 そうしてぼくは、千波から聞いた話を伝えた。そして、いまなにが起こっているかも。突拍子もない話だったろうが、萩森は黙って聞いていた。目の前にじっさいに腹を抱えて苦しむ千波の姿があったせいかもしれない。
 語り終えると、ぼくは深く頭を下げた。
「黙ってたことは謝る。だけど、お願いだ。千波を助けてくれ」
 身勝手な懇願だった。だが、すがらずにはいられない。どうか、どうか。
 永遠にも等しい沈黙が流れた。頭を下げたままでいると、萩森の長くのびた影が視界に入る。小揺ぎもしないそれをじっと見つめ、ぼくは祈っていた。
 ゆらり。影が動く。
「標本を連れてくる」
 顔を上げると、萩森は立ち上がっていた。ぼくの視線を受け、仏頂面のまま応じる。
「おれにだってどうすればいいかわからないからな。麦原に標本から直接聞いてもらうしかない」
 常と変わらない偏屈そうな顔だから、じわじわとしか理解が及ばなかった。だけど、これはつまり、そういうことだよな?
 助けてくれるのだ。ぱっと顔を輝かせるぼくを見もせず、彼は千波に声をかけた。
「おい、聞こえるか。ちょっと待ってろよ」
 千波は弱々しくうなずく。萩森はぼくに千波を見ているように言うと、小走りでプールを出て行った。
 十数分後、大きなガラスケースを台車に乗せて、萩森が帰ってくる。ぼくも手伝って、ふたりでプールサイドまで運んだ。千波に対面させるように置くと、彼の伏せていたまぶたが開かれる。
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