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エピローグ

 夏休みの昼間っから寮の部屋に押しかけて、萩森と喧嘩したってことをぶちぶちぶちぶち話す半血の兄に、弟は呆れた顔をするのだった。
「おまえと萩森先生、ちゃんと話すようになったと思ったら喧嘩ばかりだな」
 ぼくとしちゃあ、それは八割、萩森に原因がある。だってあいつ、ことばが足りないんだ、圧倒的に。思い返せば家を飛び出してはじめてここに来たあの晩もそうだ。
 だってまさかほんとうにぼくを気遣ってのことばだなんて、思わないじゃないか。
 萩森がとても嫌そうな顔でぽつりぽつりと語ったことには。彼はずっとおれに、引け目を感じていたのだという。実の弟といっしょにいたほうが楽しいんじゃないかってことばどおり、こんな血のつながりもない、面白みもない男と暮らして、おまけに家事まで分担するはめになってて、鬱憤が溜まってるんじゃないかと思っていたのだ。
 考えてみれば、そりゃそうだよなあ、と思う。自分の子どもすら育てたことがないのに、旧友の遺言だからって十歳のでかいガキ押し付けられて、戸惑わないほうがおかしい。接し方に迷って当然なのだ。
「だからおれは、おれがまず大人にならないと、と思ったわけだ」
「で、今回の喧嘩の原因、なんだっけ」
「ご飯の炊き方がやわすぎるって言われた」
 おれとしては理想形なのに。
 千波ははあ、とため息をついた。そのかたわらでは、部活に出かける準備をしている。水泳パンツは部屋から履いていくのだな、と横目で見て考えながら、ぼくはベッドのスプリングを利用してぼよんぼよんとはずんでみる。そんな児戯めいた行動を横目で見やり、千波は呆れ顔をした。
「ほんとに、どうしようもない兄貴だな、おまえ」
「お? おれのこと、お兄ちゃんって呼んでもいいよ?」
「ばかな。二十五メートルくらい泳ぎきれるようになってから言え」
 無茶言うな。持てる者には持たざる者の気持ちがわからないのだ。人は浮くように、できていない。
 という目で千波を見ると、かわいそうなものを見る目で見られた。あれだけ泳ぐのが好きな人間からしたら、ぼくみたいなのはこの世の楽しみのひとつを知らないように思えるのだろう。
「なら、見て学ばせていただこうかな」
 まあいいけど、と千波は水泳パンツの上から服を着込み、もろもろの荷物を入れたバッグを肩にかけた。ぼくは彼のうしろをついて、プールに向かう。見学としゃれこむのだ。
 夏休みもじきに終わる、という頃合だが、空は高く、入道雲の塔がむくむくとそびえたっている。プールのみなもは空の色をうつして青、太陽にきらめいてまぶしい。
 しぶきを上げて泳ぐ千波の姿もまた、まぶしかった。
 人魚の件のあとしばらく、部に戻ったばかりの千波はそれなりに苦労したようだった。こんなに長いブランクははじめてだったらしく、鉛のように重く動かない体に苛立っていた。
 だけど同じくらい、泳げるようになった喜びも強かったみたいだ。
 千波が飛び込み台に上がり、すう、と息をととのえる。身をかがめ、折りたたまれたナイフのような姿勢で飛びこむ。力強いドルフィンキック。数メートルを進み、浮かび上がったかと思うとクロールで泳ぎ始める。均整のとれた、しなやかな筋肉の躍動がありありと見てとれた。体の細胞ひとつひとつが、水と親しむことの喜びにさざめいているようだ。
 千波の動きをじっと目で追っていると、ふいに声がかかった。
「弦本。なにしてんの」
 見上げると、フェンス越しに木梨がいた。千波見に来た、と言うと、ふしぎそうな顔で首をかしげる。
「おまえら、なんか急になかよくなったよなあ」
「まあね。いろいろあったんだよ、この夏」
 意味深に笑ってやると、木梨は興味しんしんで身を乗り出した。なんだよ聞かせろよ、と迫ってくるのをてきとうにいなしていると、
「こらぁ弦本!」
 遠くから顧問にどやされる。慌てて練習に戻っていく背中を見て笑っていると、ちょうど泳ぎ終わった千波ににらまれた。会話の内容を聞いていたはずもないから、たぶん、部員の練習の邪魔をするなってことだろう。っていっても、話しかけてきたのはあっちなんだけどな。
 そのあともしばらく泳ぎを眺めていたけれど、暑さに耐えかねて千波の部屋に戻った。クーラーなんてない部屋なので扇風機で暑さをしのぎつつ、漫画読んだり宿題したり、漫画読んだりしていると、やがて夕方になる。練習を引き上げた千波は寮の扉を開くなり、我が物顔でベッドにのさばるぼくを見て顔をしかめた。
 スポーツバックをぼすんとぼくの背の上に起き、腹を抑える。練習終わりでぺこぺこなんだろう。早々と食堂に行くことにしたらしく、千波が聞いてくる。
「今日、夕飯どうすんの」
「家で食べるよ。萩森帰ってくるし」
「喧嘩してるんじゃないのか」
「してるけど、約束したからさ」
 人魚の件のあと、ぼくたちはいっしょに暮らすうえでふたつ、約束をした。まずは、喧嘩になってもお互いの意思を伝えようとすること。
 それから、できるだけ家で顔をつきあわせて食事をすること。
 聞いて、千波はふうん、と言った。
「ちゃんと家族してるんだな」
 なんだか少し照れくさくて、ぼくははにかむ。まあね。
 とはいえ、萩森が仕事を終えて帰ってくるまで時間はある。ぼくは食堂に行く千波にくっついて行って、しばらく構ってもらった。
 それから学校でちょっとした用事を済ませてから、帰路につく。冷蔵庫の食材はほとんど使い切ってしまっていたので、スーパーに寄って買い物をしてからアパートに帰った。
 一階で自分の部屋のポストをさぐると、ダイレクトメールのたぐいにまじって、はがきがいちまい混じっている。ぼく宛てだ。階段を上がりながら、文面を確認する。細長く癖があるが整った字で、こうある。
 ―姪は健勝。伯父殿はどうか。―
 海の底にもポストはあるのだなあと、ぼくは感心するのである。姪を名乗る人魚からは、こうしてたまに、手紙が届く。暇なのかもしれない。
 内容は他愛のないことだ。どこそこのカサゴが生意気だったとか、久々に会った知り合いの人魚に「てっきり死んでるかと思ってたのに」と驚かれたとか。あと、たまに千波のことを聞かれる。聞かれるままに返事を書いて、ハガキにある住所に送る。会話は成立するから、海の底にも届くらしい。
 おもしろがっているのか、人魚は姪というスタンスを崩さない。そのうちお年玉でも要求されそうだ。勘弁してほしい。こちとら小遣いを買い食いで使い潰すような生活をしているのだ。
 はがきを読み終えるとちょうど、部屋の前についた。
 日中の暑さで、薄暗い部屋のなかにはむっとした熱気がわだかまっている。ぼくはいつもどおり、窓を開けてクーラーをかけるところからはじめた。
 執念深かったはずの闇は、いまはもう、追ってこれはしない。ぼくは鼻歌交じりで台所に立つ。今日はロールキャベツにするのだ。夏らしくはないけれど、萩森の好物だってことをさいきん知った。こういうご機嫌取りは主夫業の専売特許だよね。
 それから、だ。
 ぼくは野菜室の扉を開き、食卓の上に置いておいたそれをなかにしまい込む。多少いびつな形の、ひとかかえもある大きな球果。みどりの地に黒い縞模様もあざやかな、さっき獲れたばかりのスイカである。
 ちょっとした用事、というのはこのことだった。顧問の先生に、ひとつ分けてもらえるように交渉したのだ。千波とは分け合って食べたけれど、萩森にはまだ食べさせていなかった。経験から言って、ふたりに一玉は多い。でもまあ根性だ。
 スイカの表面に、てのひらで触れる。なんだかふしぎな思いがした。スイカをいとわしく思っていたあのころを思えば、ずいぶん遠くに来たものだ。
 このスイカは、ぼくだ。だから嘲笑されているような気がしていた。だけどいまはもう、関係ない。だってぼくにだって家族が作れると、わかったのだから。もうじきに、嫁をもらう気配もない三十男が帰ってくるだろう。
 ストイックな水泳部員の弟。偏屈で不器用な保護者。百戦錬磨の人魚の姪。
 彼らになら、いずれ告げようと思うのだ。ぼくが腹の底にかかえた、この秘密を。なあ、おれがどうして、姪っ子ができたときあんなにうれしかったか、わかってもらえるかな。
 種なしのスイカをぽんとたたいて、ぼくはロールキャベツを仕込みにかかるのだった。
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