14
夕暮れの昂揚
と、気づく。萩森が突っ立ったまま、黙している。人魚の標本をあれほど大切にしていたのだ、生身の人魚と対面して、いったいなにを思っているのだろう―。こわごわと、その表情をうかがう。彼は水面から顔を出す人魚を注視していた。その目に浮かんでいるのは、喜びでも怒りでも、嘆きでもない、ただただ強い光だ。
もとより表情の読みにくい人間だ。ぼくには萩森がなにを思っているのか、わからない。ただ、なんらかの強い感情が働いていることだけはたしかだった。
人魚は首をめぐらせ、萩森を見る。
「おまえももうそろそろ、いいだろう。人の身にはずいぶん長い時間、わたしを閉じ込めた。少しは溜飲が下がったのではないか」
「……それって、どういう」
なにか事情を知っているふうな物言いに、思わず疑問を漏らしてしまう。人魚はほのかな笑みを浮かべたまま、ぼくに言う。
「ここから先は、本人と直接話すがいい。わたしが思うに、おまえたちには対話が足りない」
う、とことばにつまる。……やりにくい。まさか見られているだなんて思わないから、この三年のあいだ、標本の前で萩森とやりあったことは何度かあったような気がする。
わかりやすく顔をひきつらせたぼくに、人魚は呵呵と笑った。さっきの千波とのやりとりといい、こいつ、なかなかいい性格をしている。でもそうか、不死、なんだよな。十四歳のぼくなんかよりよほど長く生きているわけで、ようは百戦錬磨。太刀打ち出来なくて当然か。
「ま、そこの偏屈な男が話し渋るといかんからな。少しだけ手助けしてやろう」
「いらん真似をするな」
思わず、というように萩森がぴしゃりと言ったが、人魚は取り合わない。
「ならばもっと早く、そこの小童に話してやるべきだったな」
不器用なのも考えものだ。そう言い残し、人魚はふう、と水面に息を吹きかけた。はじめはごく小さな波だったものが、二十五メートルプールの向こうへいくにつれ大きくなる。荒だった水面が静まったとき、そこをスクリーンにして、なにかが映し出されていた。
目をこらす。少年の姿だ。たぶん、萩森の幼少期。いまのくたびれた不機嫌そうな姿とは似ても似つかないあどけない表情だが、かすかに面影がある。
彼はひとりきりの食卓で、人待ち顔をしてほおづえをついている。
しばらくすると扉が開く音がして、ひとりの女性が現れる。母親だろう。ずいぶん疲れた様子である。対して少年は、輝く笑顔を浮かべて母に取り付いた。
―おかえりなさい!
―待ってたの? さきにご飯食べてなさいって言ったのに。
母親は困った表情を浮かべながらも、少年の頭をなぜる。
温め直したカレーを食べながら、ふたりは他愛のない話をした。といっても、一方的な会話だった。少年がただひたに、今日のできごとを話すのだ。学校の体育でなにをしたとか、給食がなんだったとか。けれど母親はひどく疲れていて、返事はどこか上の空。
少年は気がつかない。来週授業参観があるのだと、純朴そうな顔で、言う。
―お父さんはいつ、帰ってくるかな。
重い沈黙が、食卓に落ちた。
母親は、子どもに聞かせるにはあまりに重いため息をついた。
―お父さんはね。海に人魚をさがしに行って、魅入られてしまったの。だからもう戻ってこられないわ。
そんなことばを最後に、水面がゆらぎ、場面が移り変わる。ついで現れたのは、墓のまえにたったひとりで立ち尽くす少年の後ろ姿だった。
線香の煙がほそくたなびいている。そんな情景に、声がかぶさった。
―おれの家族は、人魚が奪った。
それは少年の声ではなく、いまの萩森の声だった。
―父も、母も……。
ことばにはまだ続きがあるようだった。けれどそれは、最後まで再生されることなく消えた。
萩森がスリッパを脱ぎ、投げたのだった。水面にばしゃりとしぶきが立ったからだ。それが収まったときには、もうプールは再生機器からもとのプールに戻っている。
靴下履きの片足をタイルにつけ、萩森は人魚を睨みつけた。
「……下世話な人魚だ」
けれど鋭い視線くらいでは、この人魚を屈服させることなどできないのだった。思えば、生きている年月がちがう。
「わたしはおまえを恨んではいないよ。たかだか十年だか二十年の話だ。執着されて過ごすのも一興だった」
ふたりはしばらく、視線で語り合っていた。その内情は、ぼくにはわからない。
ただ、ぼくは思い出していた。萩森の家族に関する、数少ない情報。母は看護師、父は……萩森と同じように理科教師をしていたという。高校で生物を教えていたそうだ。そんな彼らの仇が、人魚なのだ。
けれど萩森はもう、それほど仇を憎むことができないのかもしれなかった。なぜならその仇の同族とにらみあっていた彼は、自分から目を逸らしたから。忌々しげに舌打ちをした萩森に、勝った、とばかりに人魚は満足げな顔をした。
そして彼女はぼくたちに向き直る。用は終わった、と手をひらひらと振った。
「ではな。わが父にして末孫に―」
まずは千波に。
「伯父にして産婆、とでも呼べばいいのかな」
そして、ぼくに。
人魚のいとまごいがじわじわと染みてくる。伯父。そうか、彼女は、ぼくの姪になるのだ。兄弟の娘、だもんな。
いい響きだ。
ぼくが思わず頬をゆるめたそのとき、人魚は身をひるがえす。彼女のうろこは青みがかった銀色で、水の上に出るとにぶく光った。
体がうねり、底に向かって姿を消すまでの、一瞬。ぼくはたしかに、それを見つけた。
星座のように、刻みつけられた黒い点と点と、点。彼女の右腰に三つ並んだ、ほくろを。
震えが、くる。
ひとりぼっちだと、思っていた。
いまはもう、ふたりぼっちですらない。
人魚はプールの底へ底へともぐってゆき、やがて、消えた。いつしか日は沈み、あたりは夜の色に染まりはじめている。けれどいつか覚えた夕暮れの昂揚が、消えずまだこの身にとどまっている。そしてそれはどんどん大きくなって、四肢をさばしっていくのだった。
ぼくは立ち上がり、首をめぐらせる。萩森はひっそりとプールサイドを出ていこうとしていた。逃がさない、とばかりに走り寄り、肩をつかむ。
「……おれ、家に帰るよ」
だから待ってて。あの食卓で。スイカを掃除して、帰ったら。ちゃんと話をしてもらうから。
そしてぼくからも、ちゃんと話をするから。