イヴたち

 でーだらぼっちはこの国のほうぼうで、あるときは山を盛りあげあるときは湖を掘り、この地で没した、という。眼下に見晴るかすあの盆地は、この校舎が建つ山は、国造りの巨人の遺作だ。放課後の教室でほおづえをつき、開けはなたれた窓から外を見て、わたしはこの地の子どもならだれだって聞かされる物語を思いかえしていた。
 つまりは現実逃避だ。机上の白い紙、四角四面の進路希望調査票。進学するのなら、必然、大学などないこの田舎町からは出てゆくことになるけれどいまいち実感がわかない。かといって早々に就職してこの町に根をおろすのも、なにかちがう。空白をうめるにうめられず、提出日をすぎてものらりくらりとかわしていたのだけれど、今日ついに担任につかまって書きあげるまで帰るなと言われた。そんな強攻策をとられても、書けないものは書けないんだからしかたがない。ほんとうは早いとこ終わらせて部活行きたいテニスしたい、だけどどうしようもなかった。
 となりの席の運命共同体にしたって、手は進んでいないようだった。ちらと横目でうかがうと、彼女もまた白紙の調査票を前に、なにをするでもなく座っているだけ。多奈田真弓(たなたまゆみ)。同じクラスになったのははじめてだけど、彼女がわたしみたいに締切破りをやってここに押しこめられているのはふしぎだった。いかにも優等生って外見だから。みどりの黒髪でわずかに隠れているものの、その向こうに作りものめいて整った顔がのぞけている。長い髪は首すじをかくし肩にながれ見るからに暑苦しいのに、汗ひとつかいた様子がない。ひそかに感心していると、多奈田さんはふいに口をひらいた。
「楡木(にれき)さんは、右手のくすり指、でしょ」
 話しかけてきたのは、わたしの視線に気がついたからか、終わりの見えないこの時間に飽いたからか。いずれにせよ、わたしのほうはひまつぶしの会話なら大歓迎だ。体ごと多奈田さんのほうに向き直ると答える。
「そうだけど……見てわかった?」
「見てわかった。左手より長いし太いものね」
 言って、多奈田さんは椅子に横座りになって、こっちに身を乗り出した。右手をとられる。多奈田さんのゆうれいじみた繊手にとらわれて、右手は死んだ蜘蛛のように五指をのばした。言われたとおり、わたしの右手のくすり指はそこだけぶかっこうに、太く、長い。左手と比べれば歴然と、関節ひとつぶん長さがちがう。
 あたり。わたしの巨人の骨はそこ。つぶやいても彼女はわたしの手をとらえたままでいる。部活ばかりで日に焼けたがさつく皮膚と、多奈田さんのまっしろでなめらかな皮膚はおどろくほどなじまなない。居心地の悪さをおぼえて、問う。多奈田さんは、どこ? 彼女は小首をかしげた。知りたい? ……まあ、知りたい。
「じゃ、たしかめてみたら」
 弧をえがいた口もとがうっすらと色づいていて、ひどく落ちつかない気分になる。やんわりと、手を引こうとした。けれど思いのほかかたくなな相手にはばまれてかなわない。あの、ととまどった声が、くちびるからこぼれた。
 そのとき、開け放してある窓からざ、と風。長い黒髪が宙にながされ、あらわになった首すじの一点が光る。ごく小さな宝石でもうめこんだみたいに。目をすがめて、光の正体が汗の玉だと知る。なまじろい肌の上にぽつりとひとつ、なまなましく、ある。
 ああなんだ。汗、かくんじゃないか。
 左手を伸ばした。まとわる髪をはらい、頚椎にふれる。大きさはそろっている、ここじゃない。でもなんだか予感があって、わたしは多奈田さんの手をほどき、右手をセーラー服のなかにしのばせた。熱のこもる薄布のうちがわ、シャツのすそをスカートから抜き、素肌にくすり指をあてる。腰のあたりから背骨をたどると、大きさ、かたちともにそろった行儀のよい隆起がつらなっていた。
 ひとつ、ふたつ。数をかぞえながら上へ上へとなぞるごとに、夏服がずり上がる。ことさらまばゆい脇腹があらわになる。やっつ、ここのつ、やがてある一点に達したとき、くすり指にしびれるような感覚があった。――特異点。皮膚一枚へだてたところに、ひとまわり大きな骨がある。たったひとつ、孤独に。ここだ。わたしがかつてでーだらぼっちの右手のくすり指だったように、多奈田さんは背骨のひとつだったのだ。
 肥大化した骨どうしをすり合わせると熱が生まれた。華奢な体が身じろぎするのに煽られて、手の動きを早める。この骨とわたしの骨、もとはひとつの体としてのしのしとこの国を歩いていた、地形をゆがめる力すら持っていた、この町を作った。のに、いまや骨はばらばらで、この土地で生まれたひとりひとりのなかに散らばっていて、わたしたちはあまりにちっぽけな女子校生をやっていて、わからない、どこに行けるだろう、どこに行きたいのだろう?
 また強い風が吹き、あざわらうように白紙の調査票が舞う。けれどわたしたちはそれを見もせず、おたがいの熱に耽溺していた。おたがいの体にやどる、でーだらぼっちのなごりの熱に。
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