百万回のおはよう
 ゆするが学校に出てきたから、ああ、春が来る、と思った。十一月の中ごろ、文化祭が終わるなり冬越えのための眠りに入ってしまった友人はいつ見に行ってもまるで死んでいるみたいで、つついても蹴っても添い寝しても唇と唇をくっつけても囁いても起きやしなかった。そして今日、卒業式の準備で朝からばたばたしているところに、二時間十六分の遅刻をしてやっと登校してきた。
 体育館の戸口に立った姿を見て息をつく。今日は三月六日、二十四節気の第三、啓蟄(けいちつ)。暦というのはよくできている。憎たらしいほどに。
 長い眠りがまだ尾を引いているのだろう、ゆするの動きはとろくさく、学生服が重たげに見える。わたしがパイプ椅子を出す手を止めて待っていると、ゆするが近づいてくる。やがてそばに立った彼と、目が合った。数か月ぶりに見る右目の虹彩は、いつかと変わらずさざめきだった青だ。ひかりの入り具合で不可思議な色に変わる。
「ふさこ」
 ゆするは、ぽつり、名だけ呼んで黙った。ひたすらに眠たげな声をしていて、ひさびさに会う友人に対する緊張とか、あるいは感動とかいったものは窺えなかった。わたしがものを言わずにいると、彼はしぱしぱとまたたく。
「おはようって言ってくんないの」
 パイプ椅子を持ち上げると、がちゃん、と冷たい金属がうるさく鳴る。その音にことばを紛れこませた。むかつく。なにが? 春が。わからないって顔をして、ゆするは片目だけの複眼をさざめかせる。

 *

 はじめておはよう、って言った日、ゆするは稚虫(ちむし)だった。小学校の入学式、となりに座っていた男の子の肌は見るからにぶよっとやわそうで、ところどころ青緑の斑点が浮いていて、見ていてあんまり気持ちのよい外見ではなかった。それでも妙な義務感に駆られて、わたしは朝のあいさつをした。式が始まる前、母親にみんなと仲よくするよう言われていたせいかもしれない。
 以来の腐れ縁である。朝学校で顔を合わせれば、おはよう。だけどゆするが冬籠りをしていたから、近ごろはそれもなかった。彼は先ごろ成虫になったばかりで冬籠りははじめてだったのだけれど、それはわたしにしたっておなじだ。はじめてだった。ゆするにおはようと言わない朝は。だからなんとなく顔を見に行くようになって、でも閉じた目にわたしがうつることはなくて。なんとなく、なんとなく考えた。
 おはようってわたしはどれだけ言ってきただろう。ゆするはどれだけ聞いてきただろう。
 ――反芻しながら、ぼうっと視線を宙に遊ばせる。パイプ椅子をすべて出し終えて休憩しているところだった。体育館の裏手に吹く風はまだつめたいけれど、心なしかおだやかに感じられる。
 近くで足音が聞こえて我に返る。
「さぼり発見」
 振り返るとゆするだった。作業のためか、黒い上着を脱いでいる。男子の持ち場に行ったはずなのに、どうしてわざわざ戻ってきたのだか。わたしが聞くより早く、ゆするは口を開いた。
「さっき言い忘れたこと、あってさ」
「なに」
「寝てるあいだ夢見た。つつかれたり蹴られたりする夢」
 ぎょっとした。けれど、かろうじて顏に出さずに済んだ、と思う。
 あんまり深く寝ているようだからぜったいに気づかれていないと思っていたのに、よもや夢に見ていようとは。ことによってはゆするの記憶を消去しなくてはならない、力ずくで。なんて考えつつ、少し身構える。ゆするは遠い目をして、なおも口を開いた。
「それと、ふさこがたくさん、おはようって言う夢。複眼でさ、増えて見える」
 最悪の事態は避けられたようで、わたしは心うちだけで息をつく。
 そのかたわら、いましがた考えていたことがまた頭をもたげた。
 おはようってわたしはどれだけ言ってきただろう。ゆするはどれだけ聞いてきただろう。つついて蹴っておはようって囁いた。ゆするはどうやら、それを複眼で見ていたらしい。
 想像してみる。たくさんのわたしが、たくさんおはよう、おはよう、おはよう。呼び声は降り積もって地層になる。ゆするは、それでも。
「――それでも、起きなかったんだ」
 低くつぶやく。ごめん、と返されたけれど、その声音はさして申し訳なくもなさそうだ。
「そういう体の造りだから。ま、何度もお見舞いご苦労さんだったな」
「お見舞いになんて行ってないし」
 うそはついていない。あれは見に行っていただけだから。それだのにゆするは、うそつけ、と笑った。夢の内容がその根拠だろうか。たかが夢なのに。
「ありがとな」
 それだけ言いに来た、と言って、ゆするは踵を返す。白くて薄いシャツごしに、背中の皮膚がわずかに透けている。はしる翅脈が、淡く影を落として見えた。その輪郭がぼうっとやわらかい。ああ、春が来る、と思った。蟄虫啓戸(すごもりむしこをひらく)、冬の終わり。それは望もうと望まなかろうと、来たるべき日にだけやってくる。わたしにできることは多くなくて、せいぜいらちもない夢を見せるくらいのこと。
 やっぱり、むかつく。なにが? 春が。
 持ち場に向かって歩いていく後ろ姿を呼び止める。ゆするが振り返る前に、早口で言った。われながらすねているみたいな声音になった。
「おはよう」
 あとはつまさきだけ見ていた。足音が止まって、やがて声が返る。
「うん。おはよう」

おしまい
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