ミタカが漕ぐ自転車は、ゆっくり、ゆっくり、町のあいだを縫っていった。錆びて見えた車輪は、油がさされていたのか思いのほかするすると回って、わたしたちを前に前に運んでゆく。
《小さな町》の風景はいつもとちがって見えた。身長より少し高いところから見ているせい、歩かなくても流れていく視界のせい。不快指数の高い、なまぬるく湿った風が、どうしてか心地いい。廃墟の陰影にはゆううつなものしか感じていなかったのに、いまは夏の光を透かして青い木々の色濃さばかり目につく。
それにしても、ゆうれい犬の数はほんとうに多い。こうしてなんとなく見ているだけでも、建物の陰にうごめく姿を見つけることができる。ゆうれい、というだけあるのか、光の下にはあまり出てきたがらないようだった。
ふと思い立って、となりのアンダーソン氏に話しかける。
「アンダーソン氏は、ゆうれい犬とはなかよくしないの」
アンダーソン氏は座席に寝そべっていて、まるで灰色の座布団のようになっていた。それも、すごく座り心地のいいやつ。氏はふん、と鼻を鳴らしただけだった。その鳴らしかたがいかにもいまいましげだったので、わたしは首をかしげてしまう。
「アンダーソン氏は、さ」
と、前のほうでミタカが口を開いた。
「仲悪いんだよ、ゆうれい犬の親玉、みたいな、やつと……っ」
切れ切れのことばだった。あいだにせわしなく呼吸の音が挟まっている。ゆうれい犬の親玉ということばが気にかかったけれど、それよりミタカがつらそうだ。漕ぎながらしゃべったせいでいよいよ疲労が隠しきれなくなったのか、自転車の進みがとたんにのろくなった。やがて、完全に止まる。
「ごめん、ちょっと疲れた……」
わたしを自転車に乗せるときは、あんなに気取ってみせたのに。せわしなく肩を上下させるいまのすがたとの落差が激しくて、なんだかおかしい。わたしは座席から降りた。
「替わる」
「え、大丈夫?」
「きみとわたしだったら、たぶんそんなに変わんないよ」
体力とか、脚力とか。ミタカは見たとおりの青びょうたんだ。それならわたしにもおなじことができるだろう。
ミタカは渋ったけれど、やがて座席をわたしに明け渡した。疲れているのはほんとうだったと見える。
いざ漕ぎだしてみると、車体もそこに乗りこんだひとりと一匹も、ずっしりと重たく感じられた。照りつける日差しが首筋を舐め、汗が噴き出してくる。ミタカもこれをずっと引っぱってきたのだ、と思うとなんだかむずむずした。その落ち着かなさはやがて、そんなひょろひょろの体で無理しなくてもいいのに、という悪態に結実した。
そうして、わたしたちは代わりばんこに自転車を漕ぎ、《小さな町》を見て回った。しだいに日は傾き、空がかげりだしたころ。そろそろおしまいにしようか、とミタカは言った。おたがいに重い自転車を漕ぎつづけてくたくただった。アンダーソン氏だけは涼しい顔をしていたけれど。
「あ、でも帰る前に、寄り道しよう」
わたしと運転を替わったミタカはそう言い出した。断る理由もないので任せていると、自転車はプラネタリュウムとは別の丘をのぼりはじめる。思い出す。そういえば、この町にはふたつの丘があった。片方にプラネタリュウムがあり、もう片方は――。
目的地はそう遠くもなかったようで、自転車が止まる。そこにある建物を見て、わたしは息を呑んだ。けれどそんなわたしの様子には気づかずに、ミタカは自転車を降りて得意げな顔をする。
「ここさ、ぼくのとっておきの場所なんだ」
もうひとつの丘には、住宅街があった。ただ、いまは建物はみな崩落して更地になっている。わたしの目の前にある、ただひとつをのぞいては。
「びっくりした」
すなおな感想が漏れる。二階の部分は天井がまるまるなくなっていたし、赤れんがの壁には蔦がはびこっていたけれど、その家はかつてのかたちを保っていた。そう、わたしの記憶のなかにあるすがたと、それほど変わっていなかったのだ。
「ここ、わたしの家」
つぶやくと、ミタカが大仰な声を上げて驚く。わたしは思わず家のなかに入った。玄関、そこからのびる廊下、階段、二階の子ども部屋。たしかに、十年前わたしが住んでいた家だ。わたしは物陰という物陰を覗きこみながら呼ばわる。
「モモさん」
手がかりがあるとしたら、ここだけだ。わたしは幾度も幾度も名を呼びながらさがして回った。ミタカも手伝ってくれる。
モモさんはいなかった。彼のお気に入りだったカウチソファはもちろんどこにもなくて、そのせいかもしれない。
そりゃあ、都合よくここでモモさんに会えるだなんて本気で思っていたわけじゃない。なんとなく《小さな町》にやってきて、ぐうぜんミタカたちに出会って、連れてきてもらったのがたまたま自分の家で、そこで、なんてできすぎている。だから見つからなくてあたりまえだ。最後に戻ってきた二階の子ども部屋で座りこむと、空がもうずいぶんと暗くなっていることが知れた。うつっぽい桃色だ。
かすかな足音とともに、ミタカがかたわらに立つ。気づかわしげにことばをかけてきた。べつに、がっかりしてなんていないのに。
「ぼくは思うんだけどさ、璃子が会いたいと思うなら、会えるよ」
「……小学生の作文みたいなこと言うのね」
「そうかな。だってこの世界じゃ、想像は現実になるだろう」
その言いかた、まるで願いごとがなんでもかなうみたいだ。現実は大ちがい。現実になるのは、滅びに向かう幻想ばかりだ。
けれどミタカは、そんなわたしの考えを笑い飛ばした。
「案外そうでもないって。保証する」
自信がことばのはしばしからのぞいている。どこに根拠があるっていうのだろう。わからない。わからないけれど、わたしはミタカの顔に見蕩れていた。そのときあらためて、わたしはミタカの容姿を知ったのだ。真っ黒なのにいつでも光をはらんだようにつややかな髪、とがった鼻、桃色のうすい唇。白いシャツ。それに、長いまつげの陰にかくれた瞳。
まただ。また、わたしはそこに青白いほのおを見ている。彼のほほが白く照らされている。奔流。光の津波が、押し寄せてくる。
「い、一番星」
わたしは人差し指をもって、空の一点を縫いとめた。そこには金にかがやく宵の明星がある。ミタカはわたしの指す方向を振り仰ぎ、笑んだ。
「そう。ここ、高台だし、壁はあるのに天井はないから、星を見るのにいいんだ」
だからとっておき。ミタカはそう付け加えたけれど、わたしはろくろく聞いちゃいなかった。認識してはいけないものから目を逸らすのに、必死だった。どうしよう、と思う。けれどもなにが、どうしよう、なのか。
わたしがぐるぐると思考に翻弄されていた、そのときだった。