家の外で、けたたましい吠え声が上がった。ミタカもわたしもはっとする。そういえば、アンダーソン氏が見当たらない。吠え声の剣幕に押され、ふたりして慌てて家の外に出る。
果たして吠えているのはアンダーソン氏だった。姿勢を低くし、ぐるぐると喉の奥からうなりを上げている。氏がそんなにも敵意を見せている相手は、一匹の犬だった。黒。暮れかけた世界のなかでなお、暗い色。影をそのまま立ち上がらせたようだ。モモさんも大きな犬だったけどそれ以上の、巨大な犬だった。アンダーソン氏と距離を置いて、黙したまま佇んでいる。
「さっき話したゆうれい犬の親玉みたいなのって、あいつ」
きつく張りつめた空気のなか、ミタカが囁く。あらためて黒い犬を観察する。ゆうれい犬だということがにわかには信じがたかった。ゆうれい犬はほんものの犬とほとんど変わりないけれど、よくよく見ればどこか存在感が希薄だ。だけどこの黒い犬は見ればひとたび目に焼きつき、看過できない。
「けんかを始めるとやっかいだ。アンダーソン氏、実はかなりじいさんだからな。興奮しすぎてけがでもしかねない」
アンダーソン氏が高齢だとは知らなかった。それを差し引いても心配だ。黒い犬は見ているとなにか胸が騒ぐ。
「だから」
ミタカは目くばせした。
「いちにのさん、で逃げるぞ。ぼくがアンダーソン氏を抱えていく」
「自転車は?」
「いいよ。今度取りに来れば」
黒い犬の向こうにある自転車にちらと目を向け、ミタカは言う。そして、ゆっくりと数を数えはじめた。いち、に、さん。
ミタカはすばやい動きでアンダーソン氏をかっさらい、わたしも駆け出す――いや、駆け出そうとした。
その瞬間、わたしは低いうめき声を聞いたと思う。アンダーソン氏はミタカに抱えられて吠えていたから、彼の声ではない。だとすれば。
気づく。黒い犬の目は、濃い樹液のような褐色――ともすれば、赤に見える。
その犬のうめき声が、轟音を呼んだかのようだった。腹まで響く重い地鳴りがしたかと思うと、すぐ近くで粉塵が上がる。うず高く折り重なったがれきが、崩れたのだった。
「璃子!」
名を呼ばれてやっと我に返る。わたしはミタカを追って走り出す。
黒い犬はこちらを見ていた。べったりと張りつくような視線だった。
ふたりして息を切らしてプラネタリュウムに帰りつくころには、アンダーソン氏は落ち着いていた。剥げたじゅうたんに座りこみ、問う。
「あの犬、なに」
「ゆうれい犬、なんだけどほかとはちがうよな、見たかんじ。じっさい、ほかのゆうれい犬からも一目置かれているみたいで」
それにしたって、あの存在のまがまがしさはなんだったのだろう。単純に体毛の色のせい、体躯の巨大さのせい、と理由をつけてみても納得がいかない。
うつむいて考えこんでいると、沈黙が流れる。ふいにミタカは口を開いた。
「見たろ、がれきが崩れるの」
うなずく。ちょうどわたしたちが駆け出そうとしたとき、灰色の土埃が上がった。
「この町危ないんだよ。あの犬みたいな得体の知れないものなんていくらでもいるし、風化した建物はいつああして崩れるかわからない」
ミタカは言外に告げている。それが嫌なら来なければいい、と。薄い水色の目が、こちらをじっと見つめている。そのなかに、幽かな影のわたしがいる。
「わたし」
つぶやきが、こぼれる。
「死んでしまったっていいって思って、ここに来た」
言ってからやっと、思い出す。そう、わたしがこの《小さな町》に来た最初の日、たしかに思っていたはずだ。もしかしたら死んでしまうかもしれないけど、それでかまわないって。いま生きているのは未来に望みの持てない、いまに滅んでしまうな世界なのだからって。
ミタカは痛ましげな顔をして、わたしを見ていた。ふう、と音。ため息をついたのだった。それからわたしの前にしゃがみこみ、顔をのぞきこんだ。
「璃子がモモさんをさがしたいのは、どうして?」
唐突な問いに、虚を突かれる。
「モモさんが見つかったら、言いたいことがあるってのは聞いた。でも、それはどうして?」
問われるままに、自分に問いかけてみる。わからなかった。そこにはざらざらごつごつした石くれが積み重なって、道をふさいでいる。
黙したままのわたしを、ミタカは薄い色の目でただ見つめていた。やがて、二回目のため息が聞こえてくる。けれども今度のそれは、一回目のそれとは幾分ちがった色を含んでいた。
「いいよ、ぼくが璃子を助けよう。できるだけ、ね」
思いのほか節くれだった長い小指が、差しだされる。
「約束だ」
細い指先の白さが、目に明るい。引き寄せられるように自分の小指をからめようとする。肌と肌が触れそうになったそのときだった。
アンダーソン氏が吠えながら、ミタカの膝にじゃれついてきた。器用に後ろ足二本で立ち、前足をミタカの胸につく。白いシャツが、足についた土で汚れる。ミタカはなぜか、ごめんごめんと謝りながらそれをいなした。
ミタカは苦笑しながら言う。
「いや、ぼくね、アンダーソン氏とも約束してるんだけど、それがまだ終わってないからそれで」
約束、という単語に反応して寄ってきたわけだ。ミタカはやっと膝からアンダーソン氏を下ろすと言う。
「プラネタリュウムを直す。その代わり、ぼくはここにいてもいい。そういう約束をしてるんだ。……電球がどうしても足りなくってさ、なかなか進まないから業を煮やしてるんだろ」
「友達っていうか、家主と居候だったのね」
「まあそうとも言うかな」
すっとぼけた表情。居候にこんな態度をとられてはアンダーソン氏も不服なことだろう。
にしても。プラネタリュウムを直す、か。天井を見上げると、濃い藍色、褪せた薄青、剥げた白のグラデーション。この風化したにせの夜空に星がうつるのか。座席だって壊れているし、ここはあちこち欠陥だらけだ。無謀な気がする。
けれどもそんなわたしの心うちなど知らず、ミタカは思いついたように言った。
「そうだ、璃子も手伝ってよ」
ちゃっかりしている。話し相手、じゃなかったのか。
「プラネタリュウムが直ったら、鑑賞会を開くからさ」
見たくない? 星、と言って、ミタカは手を差しだしてくる。二度目だ、と思った。
わたしはどうしてか、一度目のようにその手を取ることができなかった。怖かった。皮膚どうしが触れたとき、またミタカの目に炎を見てしまうかもしれない。さっき苦しまぎれに指した一番星が、脳裏でまたたいている。警告するように。
わたしは、つれない返事をするしかなかった。