11.アンダーソン氏

 その手帳の記述は、十年前の八月から始まっていた。アンダーソン氏はそのころまだほんの子犬で、いっしょにプラネタリュウムで暮らしていたようだ。なんだってこんな仰々しい名にしたのか。そこまでは書いていない。もう少し前の日記を見ればあるいは、記述があるだろうか。
 アンダーソン氏は少々生意気な子犬だったようで、近所の犬にいたずらをして回っていたらしい。ときどき飼い主が怒鳴り込んでくることがあって苦労したと、館長は語っている。ミタカが言う、女の子に甘いが男に厳しい面もそのころから同じみたいで、館長はしばしばそれを嘆いていた。養っているのは自分なのに、氏がしっぽをふるのは女性の来館者ばかりだ、と。
 ――それでいて私が本当に困っているときには必ず寄り添い、助けてくれる。賢い犬だ。
 けれどもほほえましい日常はある日を境に一変する。十年前の八月十五日。この日のことは、おぼろげながらわたしにも記憶があった。《小さな町》のとなり町が、廃墟化の波に飲まれた日だ。朝から緊急ニュースを告げるうわずったアナウンサーの声がやまず、テレビは見るも無残な灰色の町並みをうつしつづけた。とても現実のものとは思えない映像ではあったけれど、わたしたち《小さな町》の住民は考えなくてはいけなくなった。この町から離れることを。
 館長はずいぶん悩んだようだった。
 ――ここを離れなければ、死に至るということは理解している。だが、幼い頃から慣れ親しんできた故郷を、そしてこのプラネタリュウムを捨てることが、私には難しい……。
 葛藤は数ページに及んでいた。けれどもけっきょくは、周囲の勧めに流されて、多くの住民と同じように《大きな町》に移住した。ほとんど着の身着のままの移住だったという。その後の生活は、ずいぶん苦しく孤独なものだったようだ。彼には家族がおらず、親しかった友人とも移住を機に疎遠になった。
 それでも彼には、愛する飼い犬がいた。アンダーソン氏の存在は、たったひとりの男の身にどれほど温かったことだろう。わたしもモモさんという犬と日々を過ごした経験があるから、身にしみてわかる。
 やがて館長は、高齢のために病に倒れる。それでも日記はつづいていた。一日ごとの文章がみじかくなり文字が乱れてなお、彼は書くことをやめていなかった。
 ――アンダーソン氏に、我が儘を云ってしまった。私の故郷、《小さな町》のあのプラネタリュウムを、どうか守って欲しいと。今は廃墟となり、見る影もないであろうプラネタリュウムを、だ。忠義に厚いあの子に、残酷なことを言っていると分かっている。それでも言わずにおれなかった。あれは私が幼い頃から思い描き、やっと実現した夢だから。
 手帳の白紙数ページを残して、日記はそこで終わっている。この後彼はどうなったのだろう。……思うに、だけれど、遠からず亡くなったのだ。このことばはあまりに遺言じみている。
 遺言。アンダーソン氏への。
「だから、きみはここにいるの?」
 ゆうれい犬だらけの廃墟に、たった一匹で。飼い主の願いを叶えるために。
 その瞬間、金属のこすれあう音がして、背後から光が差した。
「そういうこと」
 ごめん、思ったより時間かかっちゃってさ。そう言いながらミタカは地下室に降りてくる。そしてわたしの手元の手帳を見て、しきりに懐かしがった。
「アンダーソン氏はここを守るのに必死で、でもぼくがそんなこと知るわけもないだろ? おたがい躍起になって、ここに置いてもらうまでそれはそれは凄絶な攻防戦があったわけだよ」
 無理もない。こんな得体の知れないうさんくさい男、番犬からすればまっさきに排除する対象だ。なんでそこまでしてプラネタリュウムに居座ろうとしたのだか。
「ここに入れてもらうまでもずいぶん時間がかかったのにさ、璃子はこんなかんたんに。ちょっと嫉妬するよ」
 ミタカは冗談めかしてそう言うと、アンダーソン氏を抱き上げた。アンダーソン氏は嫌そうにもがいて、あいかわらずふたりはつかず離れずの仲のようだ。
 と、そのとき、わたしは手帳になにかがはさんであることに気がついた。取り上げてみて、わたしは目を瞠った。奥底に沈んだ記憶が、ふっと浮かび上がってくる。
「どしたの、璃子」
「これ。見たことがある」
 それは封筒だった。夜空のような深い紺色に、銀の箔押し。
「昔、モモさんとここに来たことがあって」
 なかに入ったことがあるわけではないんだけれど。あれはまだわたしがほんの子どもで、廃墟でないこの町に住んでいたときのこと。友だちが、ある日わたしに見せてくれたのだ。いま目の前にあるのと同じ、紺色に銀の箔押しの封筒。なかにはプラネタリュウムへの招待状が入っていた。わたしにはそれがとても美しい宝物に思えて、プラネタリュウムに行ってみたくなった、どうしても。
 それでモモさんといっしょに、ここまで来た。といっても、ひとりで行こうとするわたしにモモさんがついてきて気づけばわたしを先導していたのだけれど。つれてきてくれた、というほうが正しい。わたしはまだ小さかったから、ひとりではきっと迷ってしまっていただろう。
 建物の外まで来たはいいものの、もちろん招待状は持っていなかったし、なかに入ることはできなかった。ずいぶん泣いて、迎えに来た両親にもこっぴどく叱られてまた泣いた。
 わたしにとって《小さな町》のプラネタリュウムは、それこそ手が届かない星みたいなものだったのだ。考えてみれば、いまこうしてあたりまえのように中に入って立っていることが、ふしぎだ。
 ミタカの手に抱かれたままのアンダーソン氏を見る。やはり目は毛の向こうに隠れて見えなかった。わたしは彼の意図を考えてみる。氏は賢い犬だ。わざわざこの地下書斎にわたしをつれてきて、この手記を見せたのはなぜだったのか。
 わたしは机の上に封筒を戻し、告げた。
「……やっぱりわたしも手伝う。プラネタリュウム直すの」
「え!?」
 ミタカが大仰に声を上げた。あんまり驚いたのか手元が留守になり、その拍子に灰色の毛玉が手から転げ落ちた。そんなに驚くことはないだろうに。
「だって璃子、このあいだ断ったときほんとうつろな目してたからさ……死んだ魚より死んだ魚らしかったよ、あれ。だからよっぽど嫌なんだろうと思ってた」
 不躾な。けれどミタカはあんまり邪気のない顔をしていたし、今回はアンダーソン氏に免じて許してやろうと思った。
 わたしは地面に座ったアンダーソン氏のふかふかした頭をなでながら、うなずいた。
「アンダーソン氏のためだから」
 そう、すべてはこの愛すべき忠犬のためだ。

back『八月三十二日のオリオン座』top | next

index | clap

2014.03.09
Copyright(C) 2014- 八坂はるの. All rights reserved.

inserted by FC2 system