10.地下書斎にて

 数日が経った。アンダーソン氏に急かされて、モモさんをさがすかたわらミタカはプラネタリュウムの修理をするようになった。ときに鼻歌を歌いながら、ときに部品がない、部品がないとぼやきながら。
 あの日彼の手を取れなかったわたしは、なにをするでもなくそれをぼんやりと見ていた。ミタカはなにも言わず、黙々と作業をするばかり。
 今日もそれはおなじだったけれど、ちがったのは、つねは気ままに散歩などしているアンダーソン氏が、わたしのところに寄ってきたことだった。
 体をすり寄せてくるので目線を合わせ、頭や首筋を撫でる。よしよし。
「おりこう」
 最後にそう言って顔を手で包む。と、アンダーソン氏はそのなかから抜け出して、わたしの服のすそを引っぱりはじめる。いつかみたいに、ついてこいと言っているようだ。
 アンダーソン氏の向かった先は、計器盤の裏の扉だった。今日は鍵がかかっておらず、ぎしぎしとひどい軋みを上げながら開いた。
 狭い部屋だ。物置らしく、両側に天井までの木棚がしつらえられている。ただし、木は朽ち、かろうじて残っている戸棚の上に乗っているのも表紙の読めない本や、なにを模しているのかよくわからない模型といったもの。もっとも、よくわからないのは壊れているせいじゃなくてもともとかもしれない。
 アンダーソン氏は細長い部屋のいちばん奥まで行くと、こちらを振り返ってひとつ吠える。それからまた壁側を向いて、うつむいてごそごそやっている。呼ばれた気がしたから、一歩を踏み出そうとした。そのときだ。
「ほんとに女の子には甘いな、アンダーソン氏は」
 気配もなく、背後にミタカが立っていた。振り返ると思いのほか顔が近くて妙な悲鳴が出た。思わず口走っている。
「ち、近寄らないで」
「え? なんで」
 わからない、という顔をしてミタカは距離を詰めてくる。わたしはずりずりとすり足で後ずさった。一歩、二歩、三歩――がくん。
 その瞬間、見えるものすべてがスローモーションに見えた。口を丸く開いているミタカの顔、なぜか見えた天井。胃のあたりを強烈な浮遊感が襲う。
 後ろ足を出したそこには、なぜか床がなかった。アンダーソン氏が床にある扉を開けようとしていたこと、それがちょうど開いた瞬間にわたしはそれを踏み抜いてしまったのだと知ったのは、地下室に尻もちをついたときだった。
「璃子、大丈夫?」
 床の上から声がして、揺れでミタカが走ってくることが知れる。痛みはあるが、立ち上がれないほどではない。大丈夫だと返事をしようとして、できなかった。
 床の揺れのせいだろうか。ぼろい扉はばたんと音をたてて閉まり、光源が遮られ、一息に地下が暗くなる。
「あ」
 わたしはなんとか立ち上がり、備え付けのはしごを使って扉までのぼる。がちゃがちゃと扉が揺らされ、こもったミタカの声がした。
「鍵、しまっちゃったみたいだ。そっちから開くかい」
 試してみる。押しても引いても、開かない。閉じこめられた、と知ると顔から血の気が引いていく。扉を揺らすたびに天井から埃が落ちてきて鼻がむずむずしたけれど、それどころではない。
「ああ、鍵がばかになってるな……待ってて、一度鍵を壊すよ」
 しばらくして、扉がどうしても開かないとわかると、ミタカはそう言った。足音が遠ざかって、やがて地下室はしんと静まる。一抹の心細さを感じていると、背後から犬が鼻を鳴らす音がした。暗がりのなかからアンダーソン氏がこちらを見ている。
 足元がよく見えないなか、用心しながら降りていくと、アンダーソン氏が口にくわえたなにかをわたしの足元に置く。ごとん、と音をたてたそれはランプだった。灯りをともしてあたりを照らし、わたしは息を呑んだ。
 そこが廃墟と呼べるような部屋ではなかったからだ。
 床に敷かれたじゅうたんは、投影室のものよりずっとふかふかしている。見るからに堅牢な作りの本棚には本が隙間なく詰まっており、部屋の隅にはこれまたどっしりとした書物机がある。書物机は飴色をしていて、磨かれた跡がある。
 少々埃っぽくはあったけれど、ここは廃墟なんかじゃない。ただ古びているだけの、立派な地下書斎だ。《小さな町》はまるごと廃墟になってしまったはずなのに、ここだけどうして。
 書物机には椅子が二脚。アンダーソン氏がそのうち一脚に乗り上げた。わたしもそのとなりに腰掛け、そこで気がつく。机の上に、一冊の手帳がある。
 アンダーソン氏が吠える。
「見ていいの?」
 促すようにもうひと吠え。わたしはおずおずと、黒い革表紙のそれに手を触れた。紙のはしは黄色、ほとんど茶色に変色している。開くと、ブルーブラックのインクにも年季が感じられた。持ち重りがするのは、びっしりと書き込まれた文字ゆえだろうか。
 ぱらぱらとめくってみるかぎり、それは日記のようだった。いまから十数年前の日付と、数行の記述。あとはわたしには理解のできない数式。それらがえんえんと、えんえんと、ひとつの日付も抜かすこもなく書きつらねられている。めまいを起こしそうなほどに。
 それでもじっと見ていると、やがて、覚えのある名が頻出することに気づく。――アンダーソン氏。ぴたりと、ページを繰る人さし指が止まった。
 じっと読んでいるうちにわかったのは、それがこのプラネタリュウムの館長の手記であるということ。
 そしてアンダーソン氏が、彼の飼い犬であったということだった。

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2014.03.08
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