19.ゆうれい犬

 ミタカとのあいだに生まれた気まずさがぬぐえないまま、しばらく経った。「意味なんてない」という残酷なことばをかけたことを、心のどこかで後悔している。だけど謝れなかった。
 今日も惰性のようにプラネタリュウムにやってきた。すっかり回復したミタカはもくもくと投影機に向かっている。わたしが来たことにも気がつかないくらいだ。逡巡し、ひとりでモモさんをさがしに行くことにした。
 と、扉を開けて出たところで、足にやわやわしたものが擦り寄ってくる。アンダーソン氏だ。いっしょに来てくれるの、と聞くと、無言で尻尾を振られた。
 そうしてひとりと一匹で、町に繰り出す。夏は、すこしずつ、すこしずつ、終わりの気配をにおわせはじめていた。蝉の声がかげり、吹く風のなかに一筋の涼が混じって汗を冷やす。
 道を、黒い影が横ぎる。犬の吠える声がする。こうしてプラネタリュウムの外に出れば、ゆうれい犬が多いことは容易に知れた。また数が増えただろうか。足音がするわけでもなく、吠え声は遠く、どちらかといえば静かだ。けれど空気にざわめきに似たものが混じっている。例えるならばお祭りがはじまる前のにぎにぎしさ。
 しっぽを振り振り、アンダーソン氏はわたしのさきをゆく。しばらく、道をふさぐがれきなんかにつまづかないよう、気をつかいながら歩いていた。と、先導するアンダーソン氏が突然立ちどまって、わたしはつんのめる。
 けたたましく、氏が吠えた。道のまんなかに、明るい陽光を浴びて立っている人がある。――慧斗さんだった。
「また会ったね」
「ごめんなさい、アンダーソン氏が」
 わたしは氏をなだめようとかたわらにかがんだけれど、一向に言うことを聞かない。もとより飼い主ではないから、しかたがないのかもしれない。さいわい慧斗さんは笑顔で許してくれる。
「今日も、犬をさがしているんですか」
「そう」
 慧斗さんはひたいの汗をぬぐいながらうなずく。
「そういう璃子ちゃんは、どうしてこんなところに?」
「わたしも、慧斗さんと同じです。飼い犬をさがしにここまで」
 慧斗さんがへえ、と興味ありげな顔をしたので、わたしはモモさんのことを話すことにした。外見、好きだった食べもの。……熱を出したときに見た夢のことも、話していた。ふだんは滅多なことで口にしないのだけれど、似た境遇だから親近感が湧いたのだ。
「でも一向に見つからなくて。やっぱりいないのかなって思ってるところです」
 話すだけ話して、むなしくなった。ここまでさがしてきてモモさんの手がかりなんてひとつもありはしない。うつむくと、自嘲の笑みが漏れる。このままなんとなく八月は終わっていって、また学校が始まって、そうしたらこの町にも来なくなる。そんな終わりが見えていた。
 けれど、そのとき、思いがけないことばが頭上から降った。
「璃子ちゃん、ゆうれい犬のこと、知りたい?」
 思わず、顔が上がる。
「え?」
「おれなら、そのモモさん、取り戻す&法、教えてあげられるかも」
「……どういうことなんですか、慧斗さん」
 答えはなかった。ただゆるく弧をえがいた口元が、三日月のように頭上に浮かんで見える。
 アンダーソン氏が吠える。行くな、って言ってるみたいに。けれど慧斗さんのその笑顔の、ことばの甘美さには抗いがたい。立ち上がったわたしに、アンダーソン氏は渋々といったていでついてきた。

 慧斗さんがわたしを伴って訪れたのは、いつか子犬と出会った集合住宅だった。慧斗さんはそのうちの一棟の二階に上がる。いちばん手前の一室のドアノブに手をかけると、鍵が壊れていたらしいそれはあっけなく開いた。どうぞ、とうながされてなかに入る。短い廊下を抜けた先にある部屋は、薄闇に満ちていた。
「こんなところまで連れてきて、どういうことなんでしょうか」
「実験の結果が出るんだよ」
 狭い部屋のすみを指し示す。そこに檻があり、小さな影が見えた。目もとがひくつく。無意識に見てはいけないと思ったときには、すでに遅い。
 アンダーソン氏が、殺気だったうなりを上げる。
 檻のなかに横たわっているのは、薄汚れた金茶の毛をした小さな犬だった。
 かたわらに蓋のあいた古い懐中時計がころがっていて、その秒針が動くのが妙にはっきり見てとれる。けれど子犬のほうは――ぴくりとも動かなかった。
 目の前に広がる光景を、うまく認識できない。わたしが立ち尽くしていると、慧斗さんは檻の前にかがみこんだ。
「ああ、やっぱりだめか。かわいそうなことしたな」
 ぞっとするほど無感動な口ぶり。かわいそうだなんて、つゆとも思っていない、このひとは。いったいどういうこと、とかすれた声が口から漏れた。
 慧斗さんが振り返る。
「ゆうれい犬って、ゆうれいって言うだけあって、未練がいるんだよ。こいつの場合はこの時計だったんだろうな。このあいだ熱を出してた……なんていったっけ。ミタカ。そう、ミタカとかいうのが直しちゃったから」
 少しの沈黙。
「死んじゃった」
 ぞっと怖気が背筋を駆け抜けていき、ぐんとあたりを満たす暗い色が濃くなった。そのなかで、慧斗さんの明るい色の目だけがいやにぎらついている。
 ほとんど停止しかけの思考が、疑問を吐き出す。
「どうして時計のこと……知ってるんですか」
「おれがあの場にいたから。かつ、その後きみたちを追いかけて、一部始終見ていたから。覗きなんてほんとうは趣味じゃないんだけど」
 あの場。もしかして、もしかして――。
 せつな、闇から影がぬっと抜け出て、いやな予感を裏づける。赤いきらめきが目に刺さる。影は慧斗さんの体に寄り添い、慧斗さんもまた、それに親しげに応えた。
「おれのほんとの飼い犬はこっち。シャウラっていいます、よろしく」
 それは何度かわたしたちの前に現れた、あの巨大な黒犬だった。
 わたしが困っているとき都合よく現れたのは、後をつけていたから。わたしたちに近づくために善人のふりをして、仕留めそこねた犬のことを聞き出そうとした。噛み合ってほしくないピースとピースが噛み合い、一枚の絵が形作られる。
「……慧斗さんが、ゆうれい犬を増やしていたんですか」
「どころか、最初の一匹を生み出したのはおれだよ」
 慧斗さんは笑った。じつに軽やかに。足元に落ちている死なんて、どうだっていいという顔で。
「死んだ犬が戻ってくる。そういう幻想を抱いたのはおれ」

back『八月三十二日のオリオン座』top | next

index | clap

2014.04.01
Copyright(C) 2014- 八坂はるの. All rights reserved.

inserted by FC2 system