慧斗さんはいとおしげに黒い犬――シャウラの頭を撫でながら言う。
「シャウラは、おれがまだこの町に住んでたころに死んでしまって。《大きな町》に移住したんだけど、どうしてももう一度会いたくてさ。……墓参りに来たんだよ。そうしたら出てきてくれた」
その話を聞くに、感じられるのは飼い犬への愛着だけだ。はじめは犬を殺したりしていなかったらしい。犬が好きなら、なぜこんなことを。
「好きだからだ」
返す刀で思いもかけないことばが発せられる。うそだ、好きならこんなひどいことできないはず。わたしがそう言うより早く、訥々と慧斗さんは語りだす。
「おれはほとほと絶望してる、この世界に。人間はみんな精気を失って、幻想ばかりが隆盛を極めている。いずれなにもかも終わってしまうんだから、それまでの短いあいだベストな状態で過ごしたほうがいいだろ」
そんなことばを紡ぐ口もとは、あくまで弧を描いていた。穏やかな、自分のしていることをなんら疑っていない顔だった。ことばと行動の矛盾に嫌悪をおぼえ、わたしは反射的に慧斗さんを否定しかける。――だけど、できなかった。
「思わない? 生きてることに意味なんてないって」
それはわたしのずっと考えていたことだった。心のどこかやわい部分を、わしづかみにされた思いがする。ふっとのどの奥に反論が引っこみ、息が浅くなる。無理に呼吸するうち、頭ががんがんと鳴りだした。
慧斗さんに感じた、嫌悪。だけどどうして、わたしもおんなじことを考えていた。そのことがたまらなかった。わたしがせわしなく呼吸をしていると、慧斗さんは舐めるようにアンダーソン氏を見た。
「おれ、何度も逃げられてるんだよね。アンダーソンくんに。その子やっぱり賢いみたいでさ、何度もしてやられたよ。あげくおれたちの昼飯くすねていくし」
その目つきは、狡猾な蛇を思わせた。
「アンダーソン氏になにする気」
「きみの考えてるとおりのことだ。だけど心配しなくていい。死は始まりだよ。アンダーソンくんなんかはきっと、いいゆうれい犬になると思う。ゆうれいっていうからにはやっぱり、未練が必要だから。あのプラネタリュウムを守るために、きっと戻ってくるよ」
小首が傾げられる。同情を誘うように。
「なあ璃子ちゃん、おれの気持ち、わかるだろ」
わたしは慧斗さんから目を逸らした。逸らした先に、アンダーソン氏がいる。どこか不安げな様子で、こちらの様子をうかがっている。
慧斗さんの気持ちは、たしかにわかる。痛いくらいに。
だけどやっぱり――ちがう。
わたしとこのひとは、ちがう。気持ちがわかるからって、アンダーソン氏に死んでほしいわけはなかった。灰色の毛並みを見つめていると、思い出す。夏休暇のはじめ、なんのあてもなく訪ねてきたわたしを見つけてくれたこと。なついてくれてうれしかった。地下書斎でアンダーソン氏の身の上を知って、この子はほんとうの忠犬だと心底思った。
そしてミタカと引き合わせてくれたのも、アンダーソン氏だった。
出会ったことに意味なんてない。わたしはそう言った。それなら、アンダーソン氏との出会いにも意味はなかっただろうか? わかってる、わかってた。それは本心なんかじゃない。
意味がなかったっていうのなら、どうしてわたしはここにいる。
わたしは、これまで過ごしてきた時間に免じて、アンダーソン氏を守りたい。
といっても大人の男と巨大な犬一頭を相手に、勝ち目があるとは思えない。……考えろ。わたしはどうしたら、アンダーソン氏を助けられる。
「急に黙ってどうしたの? 痛い目にあいたくはないだろ。アンダーソンくんをこちらにわたしてくれないか」
ちら、と視線を慧斗さんの背後にやる。わずかな逡巡ののち、顔は上げないで口をひらく。本心をさとられないよう、声に感情を出さないようつとめる。
「……そもそもアンダーソン氏は、わたしの犬でもなんでもないです。わたしに許可をとる必要が、ある?」
「抵抗する気は、なくなったってことだね。よかった。おれだって好きこのんで女の子に危害を加えたくはない」
慧斗さんはこちらに歩みよってきて、アンダーソン氏を抱き上げた。氏はもちろんさんざん抵抗したけれど、力でかなわないようだった。
「じゃあきみは、さっさと家に帰ることだ」
「言われなくたってそのつもりです」
どちらともなく、きびすをかえす。そのまま一歩をふみだすのにあわせて、音高く鼓動がする。吐き気がするほどだった。
いち、に、さん。
四歩目を踏みだしたところで、回れ右をして駆けだした。慧斗さんの背中に思いきり体当たりして、叫ぶ。逃げて、と。むろん、アンダーソン氏に対して。
ぶつけた肩ににぶい重みがはしる。男のからだはよろけて、手から灰色の毛玉が飛びだした。わたしはアンダーソン氏を抱え上げると、すぐそばの窓に手をかけた。さいわい、そこはすぐに開いた。眼科に木立の生い茂る中庭がある。恐怖を押し切り、わたしは窓から飛び降りた。慧斗さんの手が、背中をかすめた。
木立の揺れる騒がしい音が耳をかすめていく。痛みとともに。尖った枝や葉がこすれて痛みを生む。それでもどうにか地面に足裏が触れた。驚きから醒めず言うことを聞かない体に鞭打ち、アンダーソン氏とは別方向に走り出す。
どうにか、逃げ切らなくては。