日暮れ時の長くのびた影から影へ、走って、走って。もつれる足に鞭打って、それでも大人の男と大型犬の足にはかなわなかった。せわしい足音と懐中電灯のあかりがどんどん背中に迫ってきて、そうなると内心の焦りは増す。焦りが増せば、足はさらに硬直した。無我夢中で、もうどこを走っているのかもわからない。
もう限界かと思われたとき、目のまえに現れた建物を見てわたしは少し笑ってしまった。いままでにない極限状況に、感情の出口が壊れていたのかもしれない。
それはいつか、ミタカとアンダーソン氏と訪れた、わたしの生家だった。帰巣本能、っていうのだろうか。こういうのも。
ふっと笑みを漏らした一瞬ののち、視界が反転した。手や顔のむきだしの皮膚が地面に擦れ、熱を持つ。重みと、生あたたかい風を感じた。閉じていた目をひらけば、吐息がかかるほど近くに赤い眼光。黒い犬に、組みふせられていた。
「残念だよ」
ひえびえとした声と、足音が近づいてくる。わあん、と耳鳴りがする。
懐中電灯のあかりが、金属に反射してまばゆく、目をすがめた。……見ると、慧斗さんが取り出しているのはナイフだった。
「そんなのを、犬に使うんですか」
「ちがうね。これは楯突く人間のためのもの。……きみが第一号」
守ると言ったところで、けっきょく、これか。ざまあない。でも、アンダーソン氏を逃がすことができたのなら、まあ途中点はもらえるだろう。
死んでしまってもいい、と言えるはずだった。だってわたしはずっと、こわかったから。この世界はもうほろぶしか道がなく、なにもかもに終わりが約束されている。そんななかで、わたしはどうしたらいいかわからなかった。先ゆきは不透明だ。未来は自分のつま先すらも見えない黒々した闇か、真っ白い霧のなか。
もうひとりの余裕ぶったわたしが、どこかでつぶやく。だったらいまここで終わりにしてしまえば楽じゃないか。すべて、あきらめてしまえばいいじゃないか。
だけどいざ、死に直面してみたら、こうだ。
唇がわななき、まぶたを開けば視界がゆがんだ。心臓が血をめぐらす音が、脳を揺らす。思考より先に全身が、恐ろしい、と言っていた。みっともないくらい。
狭まった視界のはしに、ベージュのスラックスの裾が引っかかっている。身じろぎし、その顔を視界にうつした。
この男の言うことが正しいだなんて、ほんのわずかでも思えなかった。殺す、死ぬということが、どんな痛みをともなうか、想像してみたことはないのだろうか。
「……あなたとわたしは、似てます、たしかに」
地にほほをこすりつけ、うまく動かない口で言う。ことばは切れ切れで、あいだに荒い呼吸を挟んでいた。
「この世のなかが怖いのよ。だから逃げた」
ほろぶしか道のないこの世界でわたしはどこに向かうのか、そこでなにかを成せるのか、それを恐れたところが。さきゆきは不透明だ。未来は自分のつまさきすらも見えない黒々した闇か、真っ白い霧のなか。
だから慧斗さんは幻想に耽溺した。わたしは、なにも感じなければいいと、心を凍らせて、あるいは腐らせた。……死んだ魚みたいな目をしていたって、それはあたりまえだ。
それでも。わたしは後生だいじに、あきらめの悪さをひとつまみ、残していた。
いつか、ミタカはわたしに聞いた。モモさんに会って、言いたいことがあるのはなぜか、と。答えられなかった。だけどいまなら、それがわかる気がする。
あがいて、モモさんに会えるのなら。願いが、叶うのなら。まだ、生きていけるような気がする。
だからわたしは、モモさんをさがしに来た。
……いまさら気づいても、遅いけど。
目は閉じていようと思った。こわい思いは、できるだけしたくない。
わたしは死ぬだろうか。そう考えたとき、どうしてかいちばんはじめに考えたのは、ミタカとの別れが早まってしまうな、ということだった。
まなうらの黒が、深くなる。しんしんと、闇が降り積もっていく。
「ちょっと待ちなよ、慧斗くん」
――呑まれてゆきそうななかに、流星。青白い尾っぽが、線をえがいた。
耳になじむその声に、わたしは目を見開いた。顔や髪が汚れるのにもかまわず、無理やり声の方向を見る。
ミタカが、いた。
「感心しないね、女の子にちょっと乱暴すぎやしないかい。……ああ、直接話すのははじめてだっけ? ぼくはミタカ」
つやめく黒髪、透けるような肌、そこにぐりぐりと大きい薄青の目。夕闇迫る空気のなかで、それはちろちろと熱をこぼしている。こんな状況だというのに、ミタカはひょうひょうと慧斗さんと対峙していた。
「どうしておれの名前……いや、それよりどうしてここが」
「頭に血がのぼっていたのかな。きみ、本懐を忘れてるよね」
アンダーソン氏、と口が動いた。それであの賢い忠犬が、わたしと別れてすぐミタカを呼びに行ったのだと知れる。
「どうしてここがわかったか……はまあ、ここしか心当たりがなかっただけの話さ。璃子がなにも考えずに走って行き着く場所、プラネタリュウム以外だったらここだけだ」
つらつらとそれだけ述べると、ミタカは腰に手を当て、慧斗さんを見据えた。
「璃子を離してやって」
そう言われて聞く悪党がいれば苦労はしない。慧斗さんにしても例外ではなく、手もとのナイフを握り直すのが見て取れた。焦りが湧いてくる。ミタカは見た通りの青瓢箪だ。襲われればひとたまりもない。
けれど慧斗さんが迫るなか、ミタカはゆうゆうと、歌うように言った。
「――きいろはお日さま、慧斗の色」
童謡めいた響きが紡がれると、足がぴたりと止まる。慧斗さんはわかりやすく目をみはった。聞く気になった? と問うミタカに返答はない。絶句していた。
「ぼくはきみが欲しいものがある場所、知ってるよ」
「おまえ……いったいなんなんだよ」
「璃子から聞いてないかい。ぼくはもとは星だからね。星相手にプライバシーなんてもの、説いたってしかたがない」
慧斗さんはいま、さぞ混乱していることだろう。わたし自身おぼえがある。なんなのだろう、ミタカは。こんなときまで、ひょうひょうとした態度を崩さない。思えば、彼の焦った顔などわたしは見たことがない気がした。
目からこぼれる火の粉が、光をました。目の力を強め、いくぶん真剣な顔になって、ミタカはもう一度言った。
「璃子を離して。ぼくの話、聞くだけ聞いてごらんよ」
慧斗さんがこぶしを握り締め、シャウラ、と呼んだ。ふっと関節が軽くなる。あの子どもっぽい文句に、どうしてそれだけの力があるのだろう。ふしぎに思いつつも、起き上がり、慧斗さんとシャウラから距離を置いた。ミタカ、慧斗さんとシャウラ、わたし。それぞれが頂点の三角形ができる。
ミタカのもとに歩み寄ろうと、足を動かした。
――その瞬間、空気が震えた。突然地の底からとどろいた重く低い音に、わたしは身じろぎもできなかった。
どおん。それから、がらがら。文字に起こすのならこう。だけどそんな、ちゃちなものじゃなかった。頭の芯まで揺さぶる衝撃に、わたしはすっかり身をちぢこまらせていた。
わたしの生家が灰色のがれきになって、崩れおちる。思わずその場にうずくまった。地鳴りに耐えるのが精一杯で、まわりがよく見えない。
ようやく音がやみ、身を起こしたそのとき、後頭部に重い衝撃がはしった。自らがよろけて地に倒れ伏したことを、一拍遅れてから知る。視界のはしにコンクリートのかたまりを見たのを最後に、意識は黒くぬりつぶされていった。