06

血のつながった他人のところ

 だから少しぼくは有頂天になっていたのだと思う。
 ファミレスを出て千波と別れたときにはもう、遅かった。とっさにそのことを思い出し、携帯で日付を確認する。
 ああ、やらかした。今日はぼくが食事当番の日だ。
 近頃外食しては遅くに帰ってくることの多かった萩森は、今日に限って在宅だった。息せき切って帰宅すると案の定、部屋の明かりがともっている。廊下を抜け、リビングにつづく扉を開く。萩森は食卓の椅子にすわり、ぼんやりとテレビを眺めていた。
「ごめん、すぐ支度するよ」
 ただいまも言わずに冷蔵庫の扉を開く。上段から下段へさっと視線をはしらせ、すぐにできそうなメニューを脳裏に思い描いた。
 後ろから声がかかる。
「麦原といっしょだったのか」
 声に怒気はなく、少し安心する。うんまあ、と答えながら、ひとまず、あたりをつけた材料を調理台の上に出した。おとつい安かったから多めに買った牛肉。キャベツ、人参、もやし―。
「おまえ、寮に入るか」
「野菜炒めでいい?」
 背中越しに問うてから、あれ、おかしいな、と思った。
 なにかいま、聞き捨てならないことばが聞こえた気がする。振り返ると、疲れた顔がこちらを見据えていた。萩森は、はつらつとした男とは言い難い。けれどいまは、いつもよりずっと老けて見えた。
「寮に入るか。なんなら、夏休み明けから」
 ゆっくりと、今度こそそのことばが食卓に投げ出された。バラエティ番組の白々しい笑い声が、テレビから響く。寮に入るか。意味はわかる。わかるけれど。
「どういうことだよ」
「この家出てくか、って言ってる」
「なんでそんな、急に」
「友人といるのに忙しいなら出て行っても構わない、ってことだ」
「怒ってんの。飯当番忘れてたこと」
「そういうわけじゃない。ただ、この暮らしが窮屈なのかと思っただけだ」
 テレビの声がうるさい、邪魔だ、と思った。食卓の上にあったリモコンの赤い電源ボタンを押し込む。勢い余ってリモコンはシーソーのように跳ねたが、テレビは消えた。ばん、とリモコンが食卓の天板を打ったのを最後に、部屋には静寂が訪れる。
 その実、耳鳴りが止まない。真夜中の冷蔵庫がたてる唸りみたいな音が頭のなかに反響して、冷静になることを阻む。どうしてこんなに心が騒ぐのだろう。それすらわからないのに口は勝手に動いた。
「急に出てけなんて。ぼくが邪魔?」
「出てけとは言ってない」
 テーブルをはさんで対峙するひとの顔は、憎たらしいくらい冷静だった。
 耳鳴りがひときわ強くなる。
「ただ、おまえだって実の弟といっしょにいたほうが楽しいだろう」
 …………じつの、おとうと。
 萩森は、知らないのだと思っていた。ぼくにたったひとり、血縁者がいること。だってなにも言わなかったから。ぼくが中学に入って千波と同じクラスになったときも、最近になってつるみだしたときも。
「知ってたの」
「むしろなんで知らないと思ってたんだ。おまえの母さんからの手紙に書いてあったよ、全部」
 手紙というのは、母さんの死後見つかったもののことだろう。大切なものをしまいこんだ引き出しのなかから発見された手紙は、おさななじみに宛てられていた。萩森久也さま。遺言がぼくと萩森をつないだ。萩森は母の言うとおりぼくを引き取り、以来四年、ぼくたちはいっしょに暮らしてきた。おなじ家で暮らして、おなじものを食べた。だけど。
「おれたちはけっきょく他人だ」
 ああ、わかった。寮に入ることを持ちかけられて、どうしてこんな気分になっているのか。
 諦めつつもどこかで願っていたのだ。目の前の男と、家族であることを。
「……やっぱりそんなふうに思ってたんだな」
 台所の牛肉もきゃべつも人参ももやしもそのままで、ぼくはリビングの扉を開け放った。廊下を駆け、玄関でスニーカーに足を突っ込む。
「清!」
 名前、久しぶりに呼ばれたな。部屋を出て行く瞬間思ったのは、そんなことだった。



 血のつながらない家族に見放されたぼくに行くあてがあるとしたら、血のつながった他人のところだ。走って十分の夜道のさきに、慣れ親しんだ学校はある。助走をつけて門に飛びつき、乗り越えてなかに入る。敷地のはずれのほうまで歩けば、寮棟がある。
 白く四角い建物に、等間隔で同じ大きさの窓が並んでいた。まだまだ宵の口だ、窓の多くに明かりがともっている。幸い部屋の場所は知っていた。棟の一階、西側の角部屋。外から窓を叩くと、すぐにガラスのむこうに人影が差した。
「清」
 いまさっき別れたばかりの人間がふたたび目の前に立っている。そんな事態に目を丸くしながらも、千波は窓を開け放つ。どうしたんだ、とは聞かれなかった。ただ気遣わしげに顔を覗き込まれて、手招きされる。
「入りな。……ひどい顔してるよ、おまえ」
 千波の部屋に入るのははじめてだった。学習机と本棚、それからベッドだけでいっぱいになってしまうような狭さだ。ベッドの下に設えられた引き出しが全開になっていて、なかの服が飛び出している。ひょっとしたら片付けかなにかの最中だったのかもしれなかった。
 ベッドの上に広げられた洋服をわきに追いやってぼくを座らせ、千波自身は床にひざをつく。なにがあったんだ、と問われれば、それを待ち受けていたようにことばがこぼれた。
「萩森に、寮に入らないかって言われたんだ」
 膝頭を見つめたまま吐露する。突き放した態度だと感じた。諦められてるみたいで、いやだった。
 千波とぼくとの関係に言及できない以上、すべてを語ることはできない。けれど最後の最後に絞りだした感慨だけは、本音だった。
「……家に帰りたくない……」
 逃げ出してきたあの部屋へ戻っていって、もう一度萩森と顔を合わせる。そのことがひどく辛く思えた。耳の奥で、冷蔵庫の唸り声がよみがえる。知らず、ぎゅうとシーツを握りしめていた。
 一時、沈黙が場を支配する。
「……じゃ、おれと来るか」
 思いもしない申し出に顔をあげると、すぐそばに千波の顔がある。黒く、濡れたような目。真摯なまなざし。
「さっき清と別れたあと、母さんから電話があった。休部してるなら、一度帰ってこいって」
 千波の実家は、電車で二時間ほどの海辺の町だという。すぐに補修授業が始まってしまうから一泊で戻ってこなくてはならないけれど、久々に家族で過ごすつもりだそうだ。
 そんな家族団らんの場にお邪魔してもいいのだろうか。不安に思うぼくに、千波はうなずく。たまには友達つれてこいって言われてるから。うそかほんとかわからない。だけど甘えたかった。千波の生まれ故郷。家族の待つ、潮の香りのする町。あこがれに似たほのあたたかい感情が、胸を濡らした。
「……あしたから、夏休みだもんな」
「そう。夏休み。だからちょっとくらい旅行したっていいだろ」
 千波はその逃避行を、家出とは言わなかった。

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