07

夏休みの逃避行

 その晩は千波のところに泊まった。連絡だけはしておけと強く言われて、萩森にメールを打つ。
 ―実の弟といっしょにいたほうが楽しいだろ。そう言われた手前、千波のところにいる、一日彼の実家で過ごすとは言えなくて、だけどおあつらえむきの嘘も思いつかなくて、ただ「友だち」と書いた。わかった、とだけ返事が帰ってきた。友だちがだれを指すのか、見透かされている気がした。
 翌朝、一度荷物をとりに帰ったけれど、萩森は留守にしていた。がらんどうの部屋で必要そうなものをかばんに詰めながら、じわじわとぼくは悟っていた。萩森とぼくのあいだをかろうじてつないでいた糸がぷつりと切れてしまったことを。大きなボストンバッグを持ってアパートの下まで降りていくと、千波は気安い様子で待っていて、それが救いだった。
 乗りこんだ電車はがらがらで、クーラーがよくきいていて、天井で扇風機が回っていた。ふたり並んで席に座り、窓の外を見る。抜けるような青とまばゆいみどり、あざやかな夏の景色がうしろに流されていく。がたんごと、がたんごと、する音といえばそれだけの静寂。床に落ちるくろぐろとした影。
 だんだん海が近くなるのがわかった。どこかなつかしく思える家並みに、潮風との親しさを感じたのだ。千波がもうすぐだ、とささやいて、あっと思ったときには、きらめく水面が顔をのぞかせている。
 駅がホームに入り、停まった。降りるなり、町中より心なしかまぶしい光が降り注いだ。かすかに潮のにおいがする。ほんとうに海が近いのだ。
「やっぱり海で泳いだり、した?」
「した。母さんが好きだからよく行ったんだ」
 連れぞって曲がりくねる道を行く。ほどなくして、住宅街のなかの一軒家にたどりついた。



 千波が玄関でただいま、と大声を出すなり、大勢の人間が出てきたので面食らった。聞けば夏休みということで親類縁者が集っているらしい。久々に千波が帰ってくるということで、近所に住んでいる親戚もわざわざ出向いてきているのだそうだ。
 荷物を置いてすぐ、みんなで昼食になった。畳敷きの部屋に置かれた低い長机ふたつが、食事の皿でいっぱいになっている。こんなに大量に作って食べきれるのだろうか、という懸念はすぐに解消された。
 食卓につくひとの数を、数えてみる。いち、に、さん、し……。……十二人。ぼくと千波を入れて、十四人。
 数を認識して、我ながらおもしろいくらい、怯んだ。しょうがないだろ、とくになにごともない親類縁者の集まりでこんな大勢の人間が集まるだなんて知らなかったのだ。
 このひとたち全員、血がつながってるのか。
 くらくらする。
 思わずこめかみを押さえていると、ふと気づく。食卓についたひとたちの視線が、思いっきり、ぼくに刺さっている。遠慮なんかこれっぽっちもない。顔をひきつらせていると、子どもの声が飛んだ。ちー兄、それだれ。
 となりに座った千波は、ああ紹介するよ、と全体を見回した。
「こちら弦本清くん。学校の友だち」
「……あ、えっと、弦本です。か、家族水入らずのところにお邪魔しちゃってすみません」
 声を詰まらせながら言う。そのとき、すぱん、と部屋のすみのふすまが開いた。
「気ぃ使わなくていいのよ」
 現れたのは初対面のはずの女性だが、見たことのある顔をしていた。千波によく似た凛々しくうつくしい面差し。母が遺した写真にうつっていた、そのひとだった。
「千波の母の、凪紗です。なぎささん、って呼んでくれると嬉しいな」
 写真は十年以上前のものだから、もちろん、それよりは少し年をとっている。けれどずいぶん若々しい。くろぐろとした髪が、タンクトップから出た肩にかかっている。千波と同じによく日に焼けた健康的な肌。笑顔になると、白い歯がのぞいた。
 凪紗さんの号令で食事が始まる。麦原家のひとびとがみょうに人懐っこいことが、すぐにわかった。千波はなかでも落ち着いているほうで諌め役に回ることが多いようだ。ぼくがあれこれ質問攻めされて困っているとフォローしてくれるのだ。親兄弟の話になってぼくが口ごもると、それとなく話を逸らしてくれた。そのうちに彼らもなにかを悟ったのだろう、今度は自分のことを話しはじめる。
 千波の伯父であるという五十がらみの男性は、小さな漁船の船長をしていると言った。
「おれが海に出るときは、いつも波が穏やかなんだ」
 空になったぼくの皿に鳥のからあげを盛りながら笑顔を見せる。さっきから入れかわり立ちかわり、こうしてものを食わされて正直もう胃が辛いのだけれど、厚意を無碍にもできずにだまって受け取る。
「きっとご先祖さまの加護だろうな」
「みんな海とか、水とかに関わる仕事なんですか」
「全員じゃないがな。でも適性があるからさ。千波だって泳ぐの早いだろ」
 そう、千波に水を向ける。好物のポテトサラダを盛りに席を立っていた千波は、皿片手に座りながら言った。
「伯父さんのは、たんにちょっとでも波が荒かったら出ないってだけのことなんじゃないの」
「なんだよ、面白くないこと言うなよな。そんなことよりおまえ、あいつとはどうなんだ」
「あいつって?」
「あー……なんつったか。コメダだかなんだか、おまえのライバルだよ、水泳の! 追い抜かされてねえだろうな」
「菰田のことか」
 そう、菰田! と伯父さんは勢いこむ。千波は湯呑をかたむけて、お茶を一口飲むと遠い目をした。
「おれが練習出てないからなんとも。……ただあいつ自己ベストは更新したって」
「なに!」
 伯父さんは顔を赤くして叫ぶと、千波を叱咤する。ちょっとお酒が入ってるのかもしれない、と思って手元を見たら案の定、さっきまで卓になかったビールの缶が握られている。
「ちょっと兄さん、昼間っからお酒飲まないでよ」
 凪紗さんが現れて、伯父さんから缶を奪い取る。たちまちブーイングが飛んだ。だって休日だし、鳥のからあげだし。これが飲まずにいられるかってんだ。けれど凪紗さんは頑として首を縦に振らなかった。
 そんなやりとりを眺めてぼくは笑っていたのだけれど、ふと気づく。となりに座った千波が、ふっつりと黙りこんでいる。黒い目はぼうっとして、どこかここじゃない場所を見ているようだった。
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