13

おまえに

 黒いまなこに骨格標本の姿をうつし、彼はなにごとかを言ったようだった。けれどあまりに小声だったせいか、あるいはそれが人魚のことばだったせいか、ぼくには聞こえなかった。
 千波がぼくらに、標本の頭を腹に近づけるように言う。萩森とふたりでガラスケースに取り付き、持ち上げる。大きさなりの重さがあるそれを、どうにか一息で千波の言うとおりの場所に置いた。
 標本のがらんどうの眼窩が千波の腹を見つめる。かたずを飲んで見守るぼくらの前で、それは起こった。
 かたり。
 そんな軽い音とともにほんの一瞬、人魚の顎が動いた気がしたけれど、もしかしたら錯覚だったかもしれない。ただ、なにかが起こったのはたしかだ。
 夢か、魔法でも見ているようだった。
 次にまばたきをしたとき、ファスナーはするするとなめらかな動きで開いていたのだ。
 呆然と見入っていたぼくを、千波が呼ぶ。
「清。……こっち、来て」
 さっきまで息も絶え絶えだったのが、少し落ち着いたようだった。もうろうとした声に、確固とした意志の芯がかよっている。
 言われるままに側に寄ると、彼はそっと、指先でぼくの手に触れた。
「卵。出して」
 ―なに、言ってるんだ。
 腹のなかに入っている人魚の体のものを、ぼくの手でもって外に出せと言っている。それを理解したとき、臆病風が吹いた。そんな、なんでぼくが。できるわけない、そういうのはちゃんとした医者とか、経験豊富な産婆とかに任せるべきであってそのへんにいた弦本清十四歳なんかに任せていいことじゃないだろう!
 ぼくは後ずさろうとする。けれど千波の手がそれをゆるさなかった。触れているだけなのに、それはひどく優秀な拘束だった。
 おののくぼくを差し置き、だいじょうぶだよ、と千波は軽く笑ってみせる。
「おれは、ちょっと手が、動きそうにないから。おまえにやってほしい」
「……そんな言いかた……千波、ずるい」
 気丈に振舞ってはいる。だけどいちばん辛いの、千波だろうに。だって指、震えてるし。それでおまえに、なんて言われちゃ断れるわけがない。
 ぼくは千波につられて震えそうになる手を叱りつけ、ぱん、とみずからの頬を打つ。
 あらためて腹を見ると、ひらいたファスナーの奥からは黒い影のようなものがこぼれ出している。ぼくはそっと、手を下腹にあてがった。薄い皮膚のうちでは、まだ、熱く血潮が燃えている。病的なまでに。千波の息は落ち着いたとはいえまだ荒く、この熱が彼を苛むもののひとつなのだと思った。
 楽にしてやりたい。
 意を決して、まずは指のさきを侵入させる。内側はますます熱く、こちらの皮膚が焼けるかと思うほどだった。体の内側ということでぬめる感触を想像していたけれど、思いのほかさらりとしている。
 闇をかきわけ指を進めていく。第二関節ほどまで埋めたとき、指先につるりとしたものが触れた。ひんやりとして湿っており、表面には弾力がある。
 これが、卵。そっと指でさぐってわかる、それほど大きなものではない。けれど指だけでは取り出すことまではできないだろう。
 ぼくは一度指を抜くと、体の向きを変えた。向かい合う体勢から、同じ方向を見て寄り添う体勢へ。そうしてみぞおちのほうから、てのひらを下にしてそろそろと、裂け目をさぐった。
 千波の細いのどの奥から声が漏れる。ごめん、と謝りながら、ぼくは手に力をこめた。ぐ、と卵が持ち上がるのを感じる。
 やがて半透明の曲面が、ファスナーの合間から顔をのぞかせた。ぼくは空いている方の手で下腹を押し、卵をせり上がらせる。じわり、じわり、と卵が出てくる。
 そしてあるとき、つるりと、卵は完全に千波の体を離れた。
 そっと持ち上げる。両のてのひらでぎりぎり覆えるくらいの大きさの、半透明の楕円体である。大きさの割にずっしりと持ち重りがして、こんなものを腹に引き受けていた千波は、ぼくが思っていたよりずっとたいへんな思いをしていたんじゃないかと思う。うっすら水色がかった半透明の中心に、紫紺色の核がある。
 しげしげと眺めていると、にわかに手のなかのそれが重さを増す。とても持ち上げていられず、タイルの上に置いた。すると内側から膨れ上がるように、卵は大きくなった。やがて身の丈の半分ほどもある、大きなものになる。
 萩森と雁首揃えて見入っていると、かたわらのガラスケースががたがたと震えた。見れば、なかで人魚の骨が激しく身を震わせている。
 出せ、という無言の訴えであることはぼくにも萩森にも伝わった。萩森がケースの蓋をひらく。支えの棒、針金をものともせずに、人魚の骨が宙を泳いだ。卵めがけてまっすぐに、なだらかな弧を描いて。白くにごった卵の表面にさざなみをたて、音もなく、骨は内部に吸い込まれていった。
 それが孵化するまで、そう時間はかからなかった。ぴし、とやわらかな殻にひびが入り、大きな亀裂になる。そして内側に、影がゆらいだ。それはどんどん輪郭をはっきりさせて、判別可能なシルエットになる。上半身は人。下半身は、魚。
 人魚が殻をやぶってプールの水へ飛びこんだのは、一瞬のできごとだった。飛沫もほとんど立てずに流線型を描いて、水のなかに消えてしまう。見間違いかとまばたきするが、プールサイドにはがらんどうの殻が残されている。ならばとプールのなかをさがすと、そこからゆらりと影が浮かび上がった。
 顔を出した年若い女の人魚は、千波ととてもよく似ていた。光を通さない黒髪に、凛々しい顔立ち。髪は長くうねるような癖を持っていたし、顔のつくりは少女らしい可憐さを兼ね備えている。けれどまといつく空気が千波のそれとよく似ていて、ああ、こいつはたしかに千波が育てたんだなと思わせるのだ。
 淡いさくら色の口唇が開く。
「苦労をかけたな」
 あだっぽい、つややかな声だ。ねぎらいを受けて、千波がプールのふちまで這ってくる。
「こんなに大変だとは思ってなかった」
 多少げんなりした声である。人魚は悪びれずにほほえんだ。
「あまり脅すと引き受けてくれないだろうと思ってな。しかし、よく耐えた。晴れてお役御免だ」
「……その顔を見ていると、見返りを求めたくなる」
 ふむ、と芝居がかった仕草で口元に指をやり、人魚は言う。
「必要なら、おまえの泳力を底上げしてやろう。菰田なんか目ではないくらいに。大会で優勝し放題だぞ」
「いらない」
 即答だった。人魚がそう言うと思った、と言いたげな顔をする。
「なら、報酬はなしだ」
 はたから見ていても、体よく丸め込まれている気がした。千波も同じことを思ったのだろう。ふう、軽いため息。まあいいけど、とつぶやいた。
 それから、ふと気がついたように、開け放してあった腹のファスナーを閉じる。銀色の二本に別れた線は閉じられたそばからもとの赤い一本に戻り、やがてそれすら薄れて消えた。残ったのは、なめらかな肌ばかり。
「軽くなった」
 腹が、ってことだろう。千波はもとのとおり平らになった腹に手をやり、感慨深げにしている。
 やっと、終わったんだな。千波に便乗して状況を噛み締める。
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