14.古い時計

 そのあと。ミタカはまるでなにごともなかったかのように振舞った。ふたたびプラネタリュウムを訪れたわたしは、多少なりとも言い訳を考えていた。なじるような言動や、不自然なタイミングでプラネタリュウムを後にしたことについて。けれど次に《小さな町》を訪れた朝、ミタカはつねと同じくやんわり笑って、おはよう璃子、と言っただけだった。考えた言い訳が用をなさずわたしは面食らったものの、それまで通りミタカに接した。ミタカの意図はわからなかったけれど好都合だと、思った。

 じりじりと照りつける陽が肌をなめる。噴きだした汗が首筋をなぞってゆくのがたまらなく不快だ。八月もなかばを過ぎたけれど、暑さがやわらぐことはない。アンダーソン氏も今日はモモさんさがしについてきたがらなくて、ミタカとふたりで町に出ていた。
 日差しの下、ひたいをぬぐいながら、ひとつひとつ廃墟を見て回る。そのうち軽いめまいをおぼえて、休憩しようと木陰に入る。人間の手の入らない大樹は、建物の残骸に黒々とした影を投げかけていた。さびたポストが近くに立ち、朽ちかけた看板が立てかけてあるから、その建物は郵便局だったのだろう。陰に入るとわずかに汗が冷えた。ふうと息をついたとき、すぐそこをゆうれい犬が通りすぎる。モモさんとは似ても似つかない犬だった。
「さいきんさ、増えたと思わないか」
 木陰に寄ってきたミタカが言う。なにを、と聞き返すと、はかったようなタイミングで草むらが揺れる。
「ゆうれい犬」
 言われて、たしかに、とうなずく。建物や木々の陰にうごめく影たちが、近ごろは騒がしいような気がする。いまこうして町を回っていても、前をぼんやりとした影が横切ることがよくあった。
「ゆうれい犬って、どこから来るんだろうね」
「……さあ、どうなんだろ」
「それがわかれば、モモさんさがしにも役に立ちそうなものだけど」
 死んだ犬すべてがゆうれい犬になるのか。そうでないとすれば、条件はなにか。死んだ場所か、犬の状態か。そもそも、ゆうれい犬とはだれがどういう経緯で抱いた幻想なのか。モモさんをさがそうと思いたったときから考えていたことだった。そして、考えても答えの出なかったこと。実際に《小さな町》に来ればあるいは、と思ったこともあったけれど、現実はこうだ。
 わたしが知っているのは、おそらくこの町以外にゆうれい犬は発生していないということ。ゆうれい犬に触れることはできず、彼らは暗いところを好むということ。それくらいだ。
「半月さがしてこれじゃ、これからわかる可能性も薄いかもな」
 ミタカは苦笑して、話をそう結んだ。

 休憩を終えて歩いていると、そのうちに大きな集合住宅の立ち並ぶ区画に入っていた。風化したコンクリートの四角い壁が、わたしたちに覆いかぶさるように建っている。
 棟と棟をむすぶ渡り廊下の下をくぐり、吹き抜けを利用した中庭に歩みいる。と、するどい音が耳をつんざいた。犬の、鋭い吠え声。はっとなって声のするほうに目を向ける。うっそうと生い茂る木立の向こうに、影が見えた。小さな犬。彼が敵意を向ける先はちょうど木の陰になって見えない。ただ、わたしたちが近づいていくとざざざ、と草を踏む音、かき分ける音がして、気配が遠ざかっていく。
 けれどそれが物陰に消える直前、ほんの一瞬、姿が見えた。刹那、生ぬるい風が首筋をなで上げる。暑くてしかたがなかったはずなのに、どうしてか背筋が冷えたような心地がする。目の前を駆け抜けていった、巨大な黒い染み。くらいみどりのなかに浮かび上がり、焼きついたのは――赤。わたしが見たのは、いつか出会ったアンダーソン氏の天敵である黒い犬だった。
「ゆうれい犬の親玉じゃないか、あれ」
 ミタカのことばで、わたしは黒い犬がたしかにそこにいたことを知る。知らず、錯覚であってほしいと思っていたけれど、そうはいかなかったようだ。あの犬はなにか、不幸の先触れのような空気をまとっている。見ると悪寒がするのだ。けれど、根拠のない直感だ。気のせいだ、と自分に言い聞かせながらごくりと生唾を飲み込み、うつむく。
 と、足元に鈍く光るなにかが落ちているのを見つけた。
「どうかした、璃子?」
「時計が」
 長く伸びた夏草にほとんど埋もれるように、懐中時計が落ちていた。手のひらにすっぽりと収まる大きさで、かつては金に輝いていたであろう金属の上蓋はすっかりくすんでしまっている。鎖も途中で切れて、見るからに年季の入ったものだ。どうしてこんなものがここに、と拾い上げようとして、けれどそれはなかばで阻まれた。小さな犬によって、だ。
「痛っ、」
 小さな犬が吠え声とともに駆け寄ってきて、時計に触れようとしたわたしの手を噛んだからだった。小さな牙が肌に食い込み、刺すような痛みを生む。とっさに後ずさると、だいじょうぶ、とミタカが駆け寄ってきた。
 痛みはたいしたことがない。そんなことはどうだっていい。噛んだということは、触れたということ。触れたということは、こちらから触れられるということだ。
「この子、生きてる」
 ふさふさした毛は薄汚れてはいたけれど金茶色をしていて、つぶらな瞳や垂れ耳が愛くるしい。
 少し、モモさんに似ている。そう思った。

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2014.03.14
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