15.よみがえる音

 わたしが手を引くと、小さな犬はすかさず懐中時計を口で拾い上げた。そのままわたしたちのもとを離れ、消えてしまうのかと思ったら立ち止まる。懐中時計を地面に下ろし、じっと見つめる。鼻先でつつく。そしてまた見つめる。何度かそれを繰り返しているのを見て、ミタカは声をかけた。
「壊れちゃったのか?」
 犬がびくりと身を震わせてこっちを見て、ふたりの視線が交錯する。ミタカは目を離さず、ゆっくりと言った。
「大事な時計なんだろ、それ。ぼくなら直してやれるよ」
 だから、おいで、と手招き。犬はふんと鼻を鳴らし、一度は目を逸らした。けれどまた二度三度と時計の様子を伺って、ミタカを見る。時計が壊れているのはどうやらほんとうらしかった。そして、この犬が時計に思い入れを持っていることも。ひと目でそこまで見抜いてしまったミタカに、少し驚く。と、彼は犬から目線を離さないまま、ぼそっと言った。
「璃子が来るまでぼくにはアンダーソン氏しかいなかったからな、犬と話すのは慣れてる」
「……ああ、そう」
 そこはかとなく悲哀の残ることばだった。わたしがかけることばを見つけられないでいるうちに、犬は観念したようにこちらに歩いてきた。

 それでも子犬は決して時計をこちらに渡そうとはしなかったし、プラネタリュウムへ向かう道中もわたしたちの三歩後ろを歩いた。そんなだったから、プラネタリュウムで出くわしたアンダーソン氏と思いのほか早く打ちとけたことにおどろく。
 同じ生きた犬、だからだろうか。
 この町では、生きた犬はめずらしい。わたしもこれまで、アンダーソン氏以外に出会ったことはなかった。
 机に向かってごそごそと道具を取り出しているミタカに、話しかける。
「生きてるね、あの子」
「そうだね。しかも、怪我してた」
 わたしもそのことには気がついていた。小犬は、前足を少し怪我していて、引きずるように歩いていた。わたしは少しためらいながらも、あの犬のことを口に出す。
「……黒い犬がなにか、したのかな」
「いやな考えしか浮かばないな。璃子もそうだろ」
 顔をしかめて言うミタカに、うなずく。おたがい同じ考えであるのはたしかなようで、ほの暗い空気が漂う。
「さいきんゆうれい犬が増えてるのは、あの黒い犬が生きた犬を殺して回っているから、とかね」
 ミタカが子犬を連れてきたのは、たしかに時計を直してやりたいという親切心もあったろう。けれど同時に、黒い犬とのあいだに事件のにおいを嗅ぎとったせいもあるのかもしれない。
 ミタカはいくぶん目を伏せ、思案するように言った。
「確証はないけど、あの犬には注意したほうがいいのかもしれないね」
 異論はなかった。おたがいうなずきあったきり、沈黙。やがてミタカは気を取り直したように、子犬が渋々手放した時計を作業台の上に置く。
「ミタカ、時計なんて直せるの」
「プラネタリュウムがなかなか直らないのは、そもそも光源になる電球が足りないからだよ」
 揶揄するような色が出ていただろうか。ミタカの背中越しに不本意そうな声がする。
「時計がさっきまで動いてたんなら、部品は揃っているだろうし。まあ、ともかくやってみるよ」
 なるほど、部品が足りないから。だけどそれなら、少し遠出して《大きな町》で買い出しをすればいい。どうしてわざわざ物も人もないこの町に引きこもっているのだか――思わず問おうとしている自分がいて、やめた。もう知ろうとするのはやめると決めたはずだ。
 口を引き結んだわたしに、ミタカは言う。
「璃子は」
 指し示した先には、灰色と金茶、毛並みのちがう二匹の犬。
「あいつらと遊んでて」

 アンダーソン氏にはなついた様子を見せた子犬だけれど、わたしは決して近づこうとはしなかった。ミタカの邪魔にならないよう二匹をつれて外に出る。無理に近づくとまた噛みつかれるかもしれないので、距離をおいて観察する。
 子犬は存外やんちゃな性格で、前足の怪我をものともせず一匹でも跳ねるように遊び回る。どこから見つけてきたのだろう、小さなボールを追い回している。アンダーソン氏はそれに付き従っていて、なんだか家族旅行中の父親のようだった。ふだんミタカに愛想のない態度をとっているところばかり見ているから、その姿は意外に思え、笑みがこぼれる。
 あらためて見ても、子犬はやはりモモさんに似ていた。もっともわたしが物心ついたころにはモモさんはだいぶ大きかったから記憶にはないのだけれど、子犬のころは、こんなかんじだったのだろうと思う。そういえばモモさんも、ボールやフリスビーで遊ぶのが好きだった。
 モモさんとの思い出に沈みこんでいると、足になにかが当たって我に返る。視線を落とすと、犬たちが遊んでいたボールだった。遠巻きに子犬がこちらを見つめているものだから、わたしはボールをつかみ、投げた。すると子犬は放物線を追い、落ちたボールをくわえた。そのまま二匹で遊び出すのだろうと思ったら――驚いたことに、子犬はわたしのところまでボールを持ってきた。
 見上げてくる黒い瞳が、投げろ、と言っているようだった。
 転がしているだけでは飽きてしまったのだろうか。子どもらしい無邪気さが警戒心を上回ったことにほほが緩み、わたしはボールを受け取った。

 日が暮れ、ミタカが呼びに来るまでボール遊びはつづいた。久々に犬と遊べたことがわたしには嬉しかった。プラネタリュウムの扉の前に立ったミタカは疲弊した顔をしている。
「直ったよ。時計の精密機械ぶりを何度も呪ったけど」
 彼の手元を覗き込むと、蓋が開いてあらわになっている文字盤の上では、秒針がたしかに動いており、こち、こち、と音をたてていた。
 ミタカが犬の前に時計を置く。橙色の日差しが、古びた金の上できらめいた。子犬は姿勢を低くして、時計を見つめた。音を聞いているのだろうと思った。
 子犬はしばらくそうしていたけれど、やがて頭を上げた。そしてわたしたちに向かって一声吠えると、時計の鎖を加えて去っていく。ふさふさした尻尾が完全に見えなくなるまで、その姿を見送った。そのうちに日は完全に沈んでしまって、冷えた風が夜の気配を運んでくる。
「わたしも、帰ろうかな」
 そうつぶやき、プラネタリュウムの中に入ろうとした、そのときだった。
 どさり。なにかが崩れ落ちる音が、背後でした。振り返って、崩れ落ちたのがなんであったのか知る。――ミタカだった。顔に色濃い疲労をのぞかせた少年が、地に膝をついている。

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2014.03.29
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